18世紀半ば、商品経済の発展を背景に、裕福な百姓や町人、都市生活者となった武家のなかから、学問・思想・芸術の担い手が数多く現れました。
洋学が蘭学として発達し、国学では本居宣長が『古事記伝』を著して日本古来の精神への回帰を説きます。
文学では川柳・狂歌・読本が新たなジャンルとして定着し、浮世絵は錦絵として完成しました。
いわゆる鎖国のもとにおかれたなかでも、18世紀初めに天文学者西川如見が『華夷通商考』を著し、新井白石がイタリア人宣教師シドッチへの尋問で得た知識をもとに『采覧異言』と『西洋紀聞』を著して、西洋の地理・物産・民俗を紹介しました。
将軍吉宗が漢訳洋書の輸入制限をゆるめ、青木昆陽・野呂元丈らにオランダ語を学ばせたことで、洋学は蘭学として発達しはじめました。医学では山脇東洋が刑死人の解剖をおこなわせ、日本最初の解剖図録『蔵志』を著しました。
蘭方医の前野良沢・杉田玄白らは、オランダ語の解剖書を翻訳して『解体新書』を著しました。これは本格的な蘭学への大きな画期となりました。ついで大槻玄沢が蘭学入門書『蘭学階梯』を著して江戸に芝蘭堂を開き、稲村三伯は日本最初の蘭日辞書『ハルマ和解』をつくりました。
先駆:西川如見『華夷通商考』・新井白石『采覧異言』『西洋紀聞』
契機:吉宗が漢訳洋書の輸入制限を緩和、青木昆陽にオランダ語を学ばせる
画期:前野良沢・杉田玄白『解体新書』
発展:大槻玄沢『蘭学階梯』・稲村三伯『ハルマ和解』
日本の古典をめぐる実証研究は、元禄時代に契沖らによって始められ、18世紀に入ると荷田春満や門人の賀茂真淵が日本の古代思想を追究し、儒教・仏教を外来思想として排しました。真淵は『万葉考』などを著しました。
伊勢松阪の商人の家に生まれた本居宣長は、真淵に学びながら国学を思想的にも高め、35年間もの実証的研究のすえに『古事記伝』を著しました。宣長は日本古来の精神に返ることを主張し、中国文化に傾倒する「漢意」を激しく攻撃しました。
盲目の国学者塙保己一は古典の収集・保存につとめ、幕府の援助を受けて和学講談所を設け、『群書類従』を編纂しました。
尊王論は儒学と結びつき、水戸学などで主張されました。1758(宝暦8)年、竹内式部は京都で公家たちに尊王論を説いて追放処分となりました(宝暦事件)。また兵学者の山県大弐は江戸で幕政を批判して死罪に処されました(明和事件)。
京都の石田梅岩は、儒教道徳に仏教や神道の教えを加味して、町人を中心とする庶民の生活倫理をやさしく説きました(石門心学)。社会のなかでの町人や百姓の役割を強調し、その人間としての価値を説く教えは、弟子の手島堵庵・中沢道二らによって全国に広められました。
大坂の富永仲基は『出定後語』で仏教思想の形成を実証的に論じました。陸奥八戸の医者安藤昌益は『自然真営道』を著して、万人がみずから耕作する社会を理想とし、武士の搾取や身分制度を鋭く批判しました。
全国の藩は藩士や子弟の教育のために藩校(藩学)を設立しました。民間でも各地で私塾が開かれ、一般庶民の初等教育では都市や村々に多数の寺子屋がつくられました。寺子屋では読み・書き・そろばんなど日常生活に役立つ知識が教えられ、民衆の識字率を大幅に高めました。
藩校:藩が設立。藩士・子弟が対象。儒学・武術を中心に教育
郷校:藩の援助で設立。藩士や庶民を教育
私塾:学者が民間で開設。儒学・国学・蘭学など
寺子屋:庶民の初等教育。読み書き・そろばん
江戸時代中期の文学は、身近な政治や社会を題材とし、出版物の普及とあいまって広く民衆に受け入れられました。
浮世草子が衰えたあと、挿絵で読者をひきつける草双紙が流行しました。黄表紙と呼ばれる風刺のきいた絵入りの小説もさかんに売り出されました。大坂の上田秋成は『雨月物語』のような文を主とする読本を著しました。洒落本・黄表紙は寛政の改革できびしく取り締まられ、代表的作家の山東京伝が処罰されました。
俳諧では文人画家でもある与謝蕪村が絵と一体になる句を詠みました。柄井川柳は、俳諧の形式を借りて世相や風俗を風刺する川柳を文学の一分野として定着させました。大田南畝(蜀山人)・石川雅望(宿屋飯盛)を代表とする狂歌もさかんにつくられ、為政者を鋭く風刺するものもありました。
人形浄瑠璃では、18世紀前半に竹田出雲(2世)が、天明期には近松半二がすぐれた作品を残しました。歌舞伎は江戸を中心に隆盛を誇り、寛政期には中村・市村・森田(守田)の江戸三座が栄えました。浄瑠璃は徐々に歌舞伎に圧倒され、座敷浄瑠璃へと移り、一中節・常磐津節・清元節などが生み出されました。
菱川師宣によって創始された浮世絵は、18世紀半ばに鈴木春信が多色刷浮世絵版画(錦絵)として完成させました。寛政期には、喜多川歌麿が美人画を、東洲斎写楽が役者絵や相撲絵を大首絵の手法で描き、すぐれた作品を次々に生み出しました。
中国の南画に学んだ文人画(南画)は、池大雅・与謝蕪村によって大成されました。伝統的な絵画では、円山応挙に始まる円山派が写生を重んじました。
蘭学の隆盛につれて西洋画の技法が長崎を通して伝えられました。平賀源内の影響を受け、司馬江漢が江戸で銅版画を始め、秋田では小田野直武らが独自の洋風画(秋田蘭画)を創始しました。
浮世絵:鈴木春信が錦絵を完成。喜多川歌麿(美人画)・東洲斎写楽(役者絵)
文人画:池大雅・与謝蕪村が大成
写生画:円山応挙の円山派
西洋画:司馬江漢(銅版画)・小田野直武(秋田蘭画)
平賀源内は高松藩の足軽の家に生まれ、長崎でオランダ人・中国人と交わり本草学を研究しました。のちに江戸へ出て摩擦発電器(エレキテル)の実験をし、寒暖計や不燃性の布などをつくって人々を驚かせました。戯曲や滑稽本も書き、博学多才の人でした。
また、ロシアの南下をきっかけとして世界や日本の地理を研究することが始まり、洋学は多くの分野にわたり実証的で科学的な研究の発達をうながしました。
宝暦・天明期の文化は、田沼時代の自由な気風のもとで多様に発展しました。蘭学と国学はいずれも実証的な学問として幕末の思想に大きな影響を与えます。寛政の改革による出版統制や異学の禁は、この文化の発展に対する反動でもありました。
蘭学は『解体新書』を画期に発達し、国学では本居宣長が『古事記伝』で古代精神への回帰を説いた。石門心学が庶民に広まり、寺子屋で識字率が向上した。鈴木春信が錦絵を完成させ、池大雅・蕪村が文人画を大成するなど、多様な文化が花開いた。
Q1. 前野良沢・杉田玄白らがオランダ語の解剖書を翻訳して著した書物は何か。
Q2. 35年間の研究のすえに『古事記伝』を著し、「漢意」を批判した国学者は誰か。
Q3. 京都で公家たちに尊王論を説いて追放処分となった事件を何というか。
Q4. 庶民の生活倫理を説き、弟子の手島堵庵らによって全国に広まった思想を何というか。
Q5. 18世紀半ばに多色刷浮世絵版画(錦絵)を完成させた画家は誰か。
Q6. 中国の南画に学んだ文人画を大成した2人の画家は誰か。
Q7. 摩擦発電器(エレキテル)の実験など多方面で活躍した博学多才の人物は誰か。
蘭学が発達した過程を、先駆者・契機・画期・発展の順に整理して述べよ。
先駆者として西川如見が『華夷通商考』、新井白石が『采覧異言』『西洋紀聞』で西洋の知識を紹介した。契機は将軍吉宗が漢訳洋書の輸入制限をゆるめ、青木昆陽らにオランダ語を学ばせたことである。画期は前野良沢・杉田玄白らが『解体新書』を翻訳・刊行したことで、本格的な蘭学への道が開かれた。その後、大槻玄沢が『蘭学階梯』を著し、稲村三伯が蘭日辞書『ハルマ和解』をつくるなど、蘭学は各分野に広がった。
元禄文化と宝暦・天明期の文化を、担い手・中心地・学問の特色の観点から比較せよ。
元禄文化は上方(京都・大坂)の町人が中心的な担い手であり、朱子学・陽明学・古学派が展開した。宝暦・天明期の文化は、裕福な百姓や町人、都市生活者となった武家にまで担い手が広がり、江戸も重要な文化の中心地となった。学問面では、蘭学が医学を中心に発達し実証的・科学的な研究が進むとともに、国学では本居宣長が日本古来の精神への回帰を説くなど、体制批判的な思想が生まれた点が元禄文化との大きな違いである。