19世紀に入ると、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱など国内の危機(内憂)と、欧米列強の接近という対外的危機(外患)が重なり、幕藩体制は大きく動揺しました。
老中水野忠邦は天保の改革で幕府権力の立て直しをはかりますが、改革は失敗に終わり、かえって幕府の衰退を示すことになりました。
一方、薩摩・長州などの雄藩は藩政改革に成功し、幕末の政局に強い発言力をもって登場します。
松平定信が老中を辞任したのち、11代将軍徳川家斉は文化・文政期を中心に約50年間の長い治世を送りました。1837(天保8)年に将軍職を徳川家慶にゆずったあとも、大御所として実権を握り続けました(大御所政治)。
文化年間(1804〜18年)までは寛政の改革の質素倹約が受け継がれましたが、文政年間(1818〜30年)になると品位の劣る貨幣を大量に流通させたことで幕府財政は潤い、将軍や大奥の生活は華美になりました。物価は上昇しましたが、商人の経済活動も活発となり、都市を中心に庶民文化が花開くことにもなりました。
18世紀後半から、関東の在郷町で酒・味噌・醤油などが生産されて江戸に売り出される状況(江戸地廻り経済圏)がみられ、豪農や地主が力をつける一方、土地を失う百姓も多く発生しました。江戸周辺の農村では博打が蔓延し、無宿人や博徒による治安の乱れも生じたため、幕府は1805(文化2)年に関東取締出役を設けて犯罪者の取締りをおこないました。さらに1827(文政10)年には、幕領・私領・寺社領の区別なく近隣の村々を組み合わせた寄場組合をつくらせ、地域の治安維持に当たらせました。
関東取締出役(1805年):幕領・私領を巡回して無宿人・博徒を取締り
寄場組合(1827年):領主の区別なく近隣の村々で組合を結成、共同で治安維持
1832〜33(天保3〜4)年、収穫が例年の半分以下の凶作となり、全国的な米不足をまねきました。以後1838(天保9)年にかけてきびしい飢饉が続き(天保の大飢饉)、農村や都市には困窮した人々が満ちあふれ、百姓一揆・打ちこわしが続発しました。
1836(天保7)年の飢饉はとくにきびしく、甲斐国郡内地方や三河国加茂郡で大規模な一揆がおこりました。
大坂でも飢饉の影響で餓死者があいつぎましたが、富裕な商人は米を買い占めて暴利を得る一方、大坂町奉行は貧民の救済策をとることなく、米不足にもかかわらず大坂から江戸へ米を大量に回送していました。これを見た大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、1837(天保8)年、門弟や周辺の民衆に呼びかけ、米問屋などの富裕な商人を襲撃しました(大塩の乱)。
この乱はわずか半日で鎮圧されましたが、重要な直轄都市で幕府の元役人が武力で反抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えました。その影響は全国に広がり、越後柏崎では国学者の生田万が代官所を襲い、各地で大塩に共鳴する百姓一揆がおきました。
18世紀末から、ロシアが蝦夷地に接近するようになりました。1792(寛政4)年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、日本人漂流民を届けるとともに通商を求めました。幕府は蝦夷地の海防を強化し、1798年には近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を探査させました。
1804(文化元)年にはロシア使節レザノフが長崎に来航して通商を求めましたが拒否されました。その後、レザノフの部下が樺太や択捉島の日本の施設を襲撃する事件がおき、日露間の緊張が高まりました。1811年には国後島でロシア軍艦艦長ゴローウニンが捕縛される事件もおこりましたが、高田屋嘉兵衛の交渉により解決しました。幕府は蝦夷地を直轄にして東北諸藩にその警護を命じました。また間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させました。
1808(文化5)年には、イギリス軍艦フェートン号が長崎湾に侵入し、オランダ商館員を人質にして薪水・食料を強要する事件がおきました(フェートン号事件)。その後もイギリス船・アメリカ船が日本近海に出没したため、幕府は1825(文政8)年に異国船打払令(無二念打払令)を出して、外国船の撃退を命じました。
1792年:ラクスマン根室来航 → 蝦夷地の海防強化
1804年:レザノフ長崎来航 → 通商拒否
1808年:フェートン号事件 → 海防体制の見直し
1825年:異国船打払令(無二念打払令)
1837年:モリソン号事件 → 打払令で撃退
1842年:アヘン戦争の情報 → 打払令を撤回、天保の薪水給与令
1837(天保8)年、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民7人を送還し通商を求めて浦賀沖に接近しましたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させました(モリソン号事件)。
この事件について、蘭学者の渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は『戊戌夢物語』を著して幕府の対外政策を批判しました。幕府は彼らをきびしく処罰しました(蛮社の獄)。
さらに1840(天保11)年、アヘン戦争が勃発したという情報がオランダ商館長から幕府にもたらされ、海防体制の強化が緊急の課題となりました。1842年、アヘン戦争で優勢なイギリスが日本に軍艦を派遣するとの情報がもたらされると、幕府は異国船打払令を撤回し、天保の薪水給与令を復活させました。
内憂外患に対応するため、1841(天保12)年、大御所家斉の死後、12代将軍家慶のもとで老中水野忠邦を中心に天保の改革がおこなわれました。忠邦は享保・寛政の改革にならい、まず倹約令を出してぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もきびしく取り締まりました。
物価騰貴の原因は、十組問屋などの株仲間が商品流通を独占しているためと判断し、株仲間解散令を出して商人の自由な取引による物価引下げを期待しました。しかし、物価騰貴の実際の原因は生産地から上方市場への商品流通量の減少であったため、株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量を減らし、逆効果となりました。
また人返しの法を定めて百姓の出稼ぎを禁止し、江戸に流入した貧民を農村に帰らせようとしましたが、十分な効果をあげることはできませんでした。また札差に対して旗本・御家人への低利貸出を命じました。
1843(天保14)年、忠邦は上知令を出して江戸・大坂周辺のあわせて約50万石の地を直轄地にし、財政の安定や対外防備の強化をはかろうとしました。しかし、譜代大名や旗本にはげしく反対され、上知令は実施できず、忠邦は老中を罷免されました。改革の失敗は、改めて幕府権力の衰退を明らかにしました。
倹約令:ぜいたく品・華美な衣服の禁止、風俗の取締り
株仲間解散令:物価引下げが目的だが逆効果に
人返しの法:百姓の出稼ぎ禁止、農村人口の回復を目指す
札差への低利貸出命令:旗本・御家人の負債を軽減
上知令:江戸・大坂周辺を直轄化 → 大名・旗本の反対で撤回、忠邦失脚
幕府の改革が失敗する一方、諸藩では有能な中・下級武士を登用して財政の再建と藩権力の強化を目指す藩政改革がおこなわれました。
下級武士から登用された調所広郷が改革に着手し、三都の商人からの莫大な借財を事実上踏み倒し、奄美三島特産の黒砂糖の専売を強化し、琉球王国との貿易を増やすなどして藩財政を立て直しました。さらに島津斉彬は集成館という藩営工場をつくり、反射炉を建設して洋式軍事工業の導入をはかりました。
村田清風が多額の借財を整理し、紙・蝋の専売制を改革しました。さらに越荷方を設置して、下関に入港する北前船などの廻船を相手に商品の委託販売をおこない、収益を上げて財政の再建に成功しました。
佐賀(肥前)藩では藩主鍋島直正が均田制を実施し、有田焼など陶磁器の専売を進めて藩財政に余裕を生み出し、反射炉を備えた大砲製造所を設けて洋式軍事工業を導入しました。このほか、土佐藩などでも独自の改革がおこなわれました。
改革によって財政基盤と軍事力の強化に成功したこれらの藩は、雄藩として幕末の政局に強い発言力をもって登場するようになりました。
「内憂外患」といわれる国内外の危機的状況に対し、幕府権力が弱体化して威信を発揮できなくなると、これにかわる上位の権威として天皇・朝廷が求められはじめました。
すでに寛政の改革期に尊号一件(光格天皇が実父に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、松平定信が拒否した事件)をめぐって幕府と朝廷が対立しており、この事件を契機に天皇の権威は浮上しはじめていました。
水戸学では、藩主徳川斉昭を中心に会沢安(正志斎)らの学者が『新論』を著して尊王攘夷論を説き、幕末の思想や政治運動に大きな影響を与えました(後期水戸学)。
天保の改革の失敗は幕府権力の衰退を決定的にし、雄藩の台頭と朝廷権威の浮上という幕末への構図をつくりました。異国船打払令から薪水給与令への転換は、鎖国の動揺を示すものであり、やがてペリー来航と開国へとつながります。
天保の大飢饉と大塩の乱で幕藩体制の矛盾が露呈し、水野忠邦の天保の改革も失敗して幕府の衰退が決定的となった。異国船打払令はアヘン戦争後に撤回され、薩摩・長州などの雄藩が藩政改革に成功して幕末の政局を主導する力を蓄えた。
Q1. 1837年、大坂で元与力の大塩平八郎が門弟や民衆を率いて富裕な商人を襲撃した事件を何というか。
Q2. 1825年、幕府が外国船の撃退を命じた法令を何というか。
Q3. モリソン号事件に際して幕府の対外政策を批判し、処罰された渡辺崋山と高野長英への弾圧事件を何というか。
Q4. 天保の改革で水野忠邦が物価引下げを目的に出した法令は何か。
Q5. 天保の改革で、江戸・大坂周辺を直轄地にしようとして失敗した法令を何というか。
Q6. 薩摩藩で藩財政を立て直し、黒砂糖の専売を強化した人物は誰か。
Q7. 長州藩で下関に設置し、廻船相手の商品委託販売で収益を上げた機関を何というか。
天保の改革における主要政策を列挙し、それぞれの目的と結果を説明せよ。
老中水野忠邦は、内憂外患に対応するため1841年から天保の改革をおこなった。倹約令でぜいたく品を禁じて風俗を取り締まり、株仲間解散令で物価引下げをはかったが、流通の混乱を招いて逆効果となった。人返しの法で農村人口の回復を目指したが効果は薄く、棄捐令で旗本・御家人の負債を軽減した。1843年には上知令で江戸・大坂周辺の直轄化をはかったが、大名・旗本のはげしい反対で撤回され、忠邦は失脚した。改革の失敗は幕府権力の衰退を決定的に示した。
享保の改革・寛政の改革・天保の改革を比較し、天保の改革が失敗した構造的な要因を論じよ。
三大改革はいずれも倹約令の発布や農村復興を柱とした点で共通するが、天保の改革が失敗した背景には構造的な要因がある。第一に、商品経済の発展が18世紀以降さらに進み、在郷商人や地主が力をつけたため、株仲間の解散による流通統制は実態にそぐわなかった。第二に、天保の大飢饉と大塩の乱によって幕府の統治能力への信頼が失われつつあった。第三に、上知令の撤回に見られるように、譜代大名や旗本の抵抗を抑えきれないほど幕府権力が弱体化していた。こうした状況下で雄藩が独自に藩政改革を成功させたことで、幕府の相対的地位はさらに低下した。