幕藩体制は100年を経て財政難や社会矛盾が深まり、幕府は体制維持のための改革を繰り返しました。
8代将軍徳川吉宗の享保の改革に始まり、田沼意次の商業重視政策、松平定信の寛政の改革へと展開します。
その間、百姓一揆や打ちこわしが頻発し、幕藩体制の動揺が明らかになっていきました。
1716(享保元)年、7代将軍徳川家継が8歳で死去して将軍家の宗家(本家)がとだえると、御三家の紀伊藩主であった徳川吉宗が8代将軍となりました。吉宗は29年間の将軍在職のあいだ、みずから先頭に立って幕政の改革に取り組みました。これを享保の改革と呼びます。
吉宗は綱吉以来の側用人による側近政治をやめ、新設の御用取次を介して将軍の意思を幕政に反映させました。改革の中心は財政の再建にありました。倹約令によって支出をおさえる一方、大名から石高1万石について100石を臨時に上納させる上げ米を実施し、そのかわりに参勤交代の在府期間を半減しました。
ついで幕領の代官の不正を摘発し、検見法を改めて定免法を広く取り入れ、年貢率の引上げをはかりました。また商人資本の力を借りて新田開発を進め、米の増産を奨励しました。これらの施策によって幕領の石高は1割以上増加しました。
「米公方」と呼ばれた吉宗は、米価を安定させるため大坂の堂島米市場を公認しました。また甘藷・朝鮮人参の栽培など新しい産業を奨励し、漢訳洋書の輸入制限をゆるめました。
改革の第2の柱は江戸の都市政策でした。町奉行大岡忠相のもとで、防火施設の整備や町火消の組織化が進められました。また評定所に目安箱を設けて庶民の意見を聞き、それによって貧民を対象とする医療施設として小石川養生所を設けました。
吉宗政権の末期には公事方御定書を制定して判例にもとづく合理的な司法判断を進め、また御触書集成の編纂を命じました。さらに次男宗武と四男宗尹にそれぞれ田安家・一橋家をおこさせ、のちに清水家とあわせて御三卿と呼ばれました。
財政:倹約令・上げ米・定免法・新田開発
都市:町火消の整備・目安箱・小石川養生所
法制:公事方御定書・御触書集成
産業:堂島米市場公認・甘藷栽培奨励・漢訳洋書の輸入制限緩和
享保の改革後、18世紀後半は幕藩体制にとって大きな曲がり角となりました。村々では有力な百姓が田畑を集めて地主に成長し、小百姓は小作人となるか都市に流入しました。村役人を兼ねる豪農と小百姓の対立が深まり、村役人の不正を追及する村方騒動が各地で頻発しました。
百姓は年貢の増徴や藩の専売制に対して広い範囲で結集し、直接行動をおこしました。これを百姓一揆と呼びます。17世紀後半からは代表越訴型一揆が多くみられ、18世紀になると広域にわたる大規模な惣百姓一揆も各地でおこりました。
1732(享保17)年には西日本一帯で蝗害による大凶作が発生し(享保の飢饉)、翌年には江戸で有力な米問屋が打ちこわしにあいました。都市では物価上昇に苦しむ民衆が米屋などをおそう打ちこわしが、飢饉のたびに激増しました。
将軍吉宗のあと、9代将軍家重を経て10代将軍家治の時代になると、1772(安永元)年に側用人から老中となった田沼意次が十数年間にわたり実権を握りました。この時代を田沼時代と呼びます。
意次は行き詰まった幕府財政を再建するため、年貢増徴だけに頼らず民間の経済活動を活用する方針をとりました。商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加などの営業税の増収を目指しました。また定額の計数銀貨(南鐐二朱銀)を鋳造し、金を中心とする貨幣制度への一本化を試みました。
さらに意次は、商人の力を借りて印旛沼・手賀沼の大規模な干拓工事を始め、蝦夷地の開発やロシアとの交易の可能性を調査するため最上徳内らを派遣しました。
意次の政策は商人の力を利用して幕府財政を改善しようとする新しいものでしたが、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行し、批判が強まりました。1782(天明2)年から始まった冷害は、翌年の浅間山大噴火を経て数年におよぶ大飢饉となり(天明の飢饉)、百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発するなかで意次は失脚しました。
商業利用:株仲間の公認、営業税(運上・冥加)の増収
貨幣改革:南鐐二朱銀の鋳造 → 金中心の貨幣制度へ
開発:印旛沼・手賀沼の干拓、蝦夷地調査
問題点:賄賂政治の横行 → 天明の飢饉の中で失脚
1787(天明7)年、江戸・大坂など全国30余りの主要都市で打ちこわしがあいつぎました(天明の打ちこわし)。こうしたなかで、11代将軍徳川家斉の補佐として老中に就任したのが、吉宗の孫で白河藩主の松平定信です。定信による改革政治を寛政の改革と呼びます。
定信はまず荒廃した農村を復興させるため、百姓の出稼ぎを制限し、荒れた耕地を復旧させる公金貸付をおこないました。飢饉に備えて各地に社倉・義倉をつくらせ、米穀を蓄えさせました(囲米)。
江戸では物価の引下げを命じ、旧里帰農令を出して定職をもたない者を農村に帰らせました。石川島に人足寄場を設けて無宿人を収容し職業訓練をおこないました。また町々に倹約を命じ、節約分の7割を積み立てさせました(七分積金)。
旗本・御家人の救済のため棄捐令を出して札差への借金を帳消しにしました。学問面では湯島聖堂の学問所で朱子学以外(異学)の講義を禁じました(寛政異学の禁)。学問所はのち官立に改められ、昌平坂学問所と呼ばれました。
民間に対してはきびしい出版統制令を出し、政治への風刺や批判を禁じました。林子平が『海国兵談』で海岸防備を説いたことを弾圧し、洒落本・黄表紙の作者や出版元を処罰しました。
しかし、尊号一件(光格天皇の実父への太上天皇の尊号宣下問題)をめぐって将軍家斉と対立し、定信は老中在職6年余りで退陣に追い込まれました。
農村:出稼ぎ制限・囲米
都市:旧里帰農令・人足寄場・七分積金
武士:棄捐令(札差への借金帳消し)
学問:寛政異学の禁・昌平坂学問所の整備
出版:出版統制令(洒落本・黄表紙を取締り)
幕府と同様に諸藩でも田畑の荒廃や年貢収入の減少により財政危機が生じていました。寛政年間(1789〜1801年)を中心に、藩主みずから指揮して領内の統制や倹約を強め、藩権力の復興をめざす藩政改革が広くおこなわれました。
農村の復興がはかられ、特産物生産が奨励されて藩の専売制が進められました。また藩校を設立して人材の登用に力が注がれました。熊本藩の細川重賢、米沢藩の上杉治憲(鷹山)、秋田藩の佐竹義和らは名君とされました。
享保の改革・田沼時代・寛政の改革は、幕藩体制の矛盾が深まるなかで繰り返された改革の試みです。財政再建と民衆統制が柱でしたが、飢饉と一揆の頻発は体制の限界を示しました。寛政の改革の学問・思想統制は、宝暦・天明期の文化の発展と密接に関わっています。
幕藩体制の矛盾が深まるなか、吉宗の享保の改革・田沼意次の商業重視政策・定信の寛政の改革が相次いだ。しかし飢饉と百姓一揆の頻発は体制の限界を露呈し、諸藩も藩政改革を進めて財政再建と権力強化をはかった。
Q1. 8代将軍徳川吉宗がおこなった改革を何というか。
Q2. 享保の改革で、庶民の意見を聞くために評定所に設けられたものは何か。
Q3. 田沼意次が商人・職人に広く公認した同業者組織を何というか。
Q4. 1782年から始まった冷害と浅間山噴火による大飢饉を何というか。
Q5. 松平定信が湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義を禁じた政策を何というか。
Q6. 寛政の改革で、旗本・御家人の札差への借金を帳消しにした政策を何というか。
Q7. 米沢藩の藩政改革をおこない名君と称された藩主は誰か。
享保の改革・田沼時代の政策・寛政の改革について、それぞれの財政政策の特徴を比較して述べよ。
享保の改革:倹約令で支出を抑制し、上げ米・定免法・新田開発によって年貢収入の増加を図った。米中心の財政再建策である。
田沼時代:年貢増徴だけに頼らず、株仲間の公認による営業税や南鐐二朱銀の鋳造など、商業を活用した財政再建を試みた。
寛政の改革:田沼時代の商業重視政策を改め、倹約令を強化し、囲米で飢饉に備え、棄捐令で武士の救済をはかるなど、質素倹約と統制を基調とした。
18世紀後半に百姓一揆や打ちこわしが増加した背景を、農村と都市の社会変化に触れながら説明せよ。
農村では商品経済の発展により、土地を集積した豪農と土地を失った小百姓の格差が拡大し、村役人の不正を追及する村方騒動が頻発した。都市では農村から流入した貧民が零細な長屋に住み、物価の上昇や飢饉の時にはたちまち生活が破壊された。幕府や諸藩の年貢増徴策に加え、享保・天明の飢饉が追い打ちをかけ、百姓一揆は広域化・大規模化し、都市では打ちこわしが激増した。