3代将軍家光の死後、幕府の政治は武断政治から学問・儀礼を重視する文治政治へと転換しました。
5代将軍綱吉は儒学を奨励し、生類憐みの令で戦国以来の殺伐とした風潮を一掃する一方、財政悪化に直面します。
6代家宣・7代家継のもとで新井白石が正徳の治を推進し、将軍権威の確立と財政再建に取り組みました。
1651(慶安4)年、3代将軍家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が4代将軍となりました。幼少の将軍に代わって松平信綱ら家光時代の老中が政治を担いました。この年、軍学者の由井正雪が政治を批判して乱を企てましたが、未然に鎮められました(慶安の変)。
この乱の背景には、大名の改易や減封によって発生した牢人たちの不満がありました。幕府は牢人問題に配慮する必要を痛感し、死ぬ間際に願い出た養子を認めない末期養子の禁をゆるめて大名の改易を減らそうとしました。
1663(寛文3)年、成人した家綱は武家諸法度を新たに発布し、主君が死んだとき家臣も切腹してあとを追う殉死の禁止を命じました。こうした動きは、強圧的な武断政治から学問を尊重する文治政治への転換ととらえることができます。
慶安の変(1651年):由井正雪の乱 → 牢人問題への対応
末期養子の禁の緩和:大名の改易を減少させる
殉死の禁止:武家諸法度(寛文令)で規定
文治政治:武力から学問・礼儀へ統治の基盤を転換
17世紀半ば、多くの藩で藩主の権力が確立し、家老を中心とした藩政組織ができあがりました。それまでの地方知行制から、藩が知行地を一括管理して米を支給する蔵米知行制へと移行する藩も増えました。保科正之(会津)や池田光政(岡山)のように、儒学の思想にもとづいて藩政を行い、名君とうたわれる大名もあらわれました。
1680(延宝8)年、家綱のあとを継いで5代将軍となった徳川綱吉は、代官の不正を処罰するなど幕政を引き締めました。後期には側用人の柳沢吉保を重用して将軍権力を強めました。
綱吉は学問を好み、湯島に聖堂学問所を建て、林信篤(鳳岡)を大学頭に任じて儒学を重視しました。武家諸法度も天和令で改定され、冒頭が従来の内容から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に改められました。
綱吉は仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して生類すべての殺生を禁じ、捨子の保護なども命じました。この法によって庶民は迷惑をこうむりましたが、とくに犬を大切に扱ったことから野犬が減少しました。
また1684(貞享元)年、神道の影響から服忌令を出し、近親に死者があったときに服喪・忌引をする日数を定めました。死や血を忌みきらう風潮がつくり出され、武力によって地位の上昇をはかる戦国時代以来の価値観は完全に否定されました。武力にかわって重視されたのが、身分・格式であり、儀礼の知識であり、役人としての事務能力でした。
綱吉は朝廷に対する政策も改め、長年途絶えていた大嘗会を221年ぶりに再興(1687年)するなど朝廷儀式を復興させ、禁裏御料を増やして朝幕の協調関係を築きました。
湯島聖堂:儒学の奨励、林信篤を大学頭に
武家諸法度(天和令):「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」
生類憐みの令(1685年〜):殺生禁止・捨子保護
服忌令(1684年):死穢を忌む風潮の制度化
大嘗会の再興(1687年):朝幕協調
綱吉の時代、幕府財政は転換期を迎えました。佐渡金山などの鉱山での金・銀の産出量が減少し、収入減となりました。さらに前代の明暦の大火後の江戸城と市街の再建費用、綱吉自身による寺院の造営費用が重なり、財政が悪化しました。1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模などに降灰による大被害をもたらしました。
勘定吟味役(のち勘定奉行)の荻原重秀は貨幣改鋳を建議し、綱吉はこれを採用しました。金の含有率を減らした元禄小判(金含有率57%、慶長小判は84%)を発行し、幕府は多大な出目(鋳造益)を上げました。しかし貨幣価値の下落は物価の騰貴を引きおこし、人々の生活を圧迫しました。
原因:金銀産出量の減少、明暦の大火後の江戸再建費・寺院造営費
荻原重秀の政策:金含有率を下げた元禄小判を発行
結果:幕府の収益は増加したが、物価が騰貴し庶民の生活を圧迫
綱吉の死後、6代将軍徳川家宣は生類憐みの令を廃止し、柳沢吉保を退けました。朱子学者の新井白石と側用人の間部詮房を信任し、政治の刷新をはかりました(正徳の治)。家宣は在職わずか3年余りで死去し、7代将軍家継はまだ満3歳であったため、引き続き白石らが幕府政治を担いました。
白石は将軍職の地位と権威を高めるため、閑院宮家を創設して天皇家との結びつきを強めました。一目で序列がわかるように衣服の制度を整えるなど、家格や身分の秩序を重視しました。
朝鮮通信使に対しては、それまでの待遇が過大であるとして簡素化し、さらに国書に将軍のことを「日本国大君殿下」と記していたのを「日本国王」と改めさせ、日本を代表する権力者としての将軍の地位を明確にしました。
白石は、金の含有率を下げた元禄小判を改め、以前の慶長小判と同率の正徳小判を鋳造させて物価の騰貴をおさえようとしました。しかし再度の貨幣交換はかえって社会に混乱を引きおこしました。
長崎貿易では多くの金・銀が流出していたため、1715(正徳5)年、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を出して貿易額を制限しました。白石は、江戸時代の初めから日本が保有する金の4分の1、銀の4分の3が貿易で海外に流出したと推計しています。
新井白石・間部詮房:6代家宣・7代家継を補佐
閑院宮家の創設:天皇家との結びつきを強化
朝鮮通信使の簡素化:「日本国王」号の採用
正徳小判:慶長小判と同品位の貨幣に復帰
海舶互市新例(1715年):長崎貿易の制限で金銀流出を防止
文治政治への転換と儒学の奨励は、武士の役割を戦闘員から為政者へと変化させ、幕藩体制を安定させました。しかし財政問題は貨幣改鋳や貿易制限だけでは根本的に解決されず、次の享保の改革へとつながります。
4代家綱のもと武断政治から文治政治へ転換し、5代綱吉は儒学を奨励して生類憐みの令で殺伐な風潮を一掃した。財政悪化に対し荻原重秀は元禄小判を発行したが物価が騰貴。6代家宣のもと新井白石が正徳の治を行い、貨幣品位の回復と海舶互市新例で金銀流出の防止を図った。
Q1. 1651年、軍学者の由井正雪が企てた乱を何というか。
Q2. 綱吉が儒学振興のために湯島に建てた施設は何か。
Q3. 綱吉の時代に元禄小判の発行を建議した人物は誰か。
Q4. 新井白石が1715年に長崎貿易を制限するために出した法令を何というか。
Q5. 新井白石が朝鮮通信使との国書で将軍の称号を何と改めさせたか。
武断政治から文治政治への転換の背景と、その具体的な政策を述べよ。
背景として、慶安の変(1651年)で大名の改易により発生した牢人の不満が明らかになったことがある。これを受けて幕府は末期養子の禁を緩和して大名の改易を減らし、武家諸法度(寛文令)で殉死を禁止した。5代綱吉は武家諸法度(天和令)で「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」を冒頭に掲げ、湯島聖堂を建てて儒学を奨励した。さらに生類憐みの令・服忌令により、武力至上の価値観を否定し、身分・格式・礼儀にもとづく秩序への転換を進めた。
荻原重秀の貨幣政策と新井白石の貨幣政策を比較し、それぞれの問題点を述べよ。
荻原重秀は金の含有率を慶長小判の84%から57%に減らした元禄小判を発行し、幕府に多大な鋳造益をもたらしたが、貨幣価値の下落が物価の騰貴を招き、人々の生活を圧迫した。一方、新井白石は慶長小判と同品位の正徳小判を鋳造して貨幣価値を元に戻そうとしたが、再度の貨幣交換がかえって社会に混乱を引きおこした。両者とも貨幣改鋳を財政問題の解決手段としたが、根本的な歳入構造の改革には至らなかった。