第9章 幕藩体制の成立と展開

幕藩体制の成立
─ 江戸幕府の誕生と対外政策

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。
幕府は武家諸法度や参勤交代によって大名を統制し、朝廷に対しても禁中並公家諸法度で規制を加えます。
対外的にはキリスト教の禁圧と貿易統制を進め、いわゆる「鎖国」体制を確立しました。

1時代の見取り図 ─ いつ・何が起きたのか

幕藩体制の成立(17世紀前半)

家康の天下統一
秀忠・家光の体制固め
キリスト教禁圧
鎖国体制の確立
1600161516301641
おもなできごと
1600年関ヶ原の戦い → 家康が勝利
1603年徳川家康が征夷大将軍に就任、江戸幕府を開く
1614〜15年大坂の陣 → 豊臣氏滅亡
1615年一国一城令・武家諸法度(元和令)・禁中並公家諸法度
1635年武家諸法度(寛永令)→ 参勤交代の制度化
1637〜38年島原の乱
1639年ポルトガル船の来航禁止
1641年オランダ商館を出島に移す → 鎖国体制の完成

2江戸幕府の成立 ─ 関ヶ原から大坂の陣へ

関ヶ原の戦い

豊臣政権下で約250万石の領地を支配する大名であった徳川家康は、秀吉の死後、五大老の筆頭として権力を握りました。1600(慶長5)年、豊臣政権の存続を目指す石田三成が毛利輝元を総大将に挙兵し、家康は福島正則・黒田長政らの諸大名を率いて関ヶ原の戦いに勝利しました。

家康は西軍の諸大名を処分し、1603(慶長8)年征夷大将軍の宣下を受けて江戸に幕府を開きました。以後260年余りを江戸時代と呼びます。

将軍権力の確立

家康は1605(慶長10)年に将軍職を子の徳川秀忠に譲り、将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示しました。家康は大御所として実権を握り続け、1614〜15(慶長19〜元和元)年大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしました。

ここが問われる: 江戸幕府成立の流れ 変化

1600年:関ヶ原の戦いで勝利
1603年:征夷大将軍に就任、江戸幕府を開く
1605年:秀忠に将軍職を譲る → 徳川氏の世襲を明示
1614〜15年:大坂の陣で豊臣氏を滅亡させる

3大名の統制 ─ 武家諸法度と参勤交代

武家諸法度と一国一城令

幕府は大坂の陣直後の1615(元和元)年に、大名の居城を1つに限る一国一城令を出し、さらに武家諸法度(元和令)を制定して大名をきびしく統制しました。秀忠は大名・公家・寺社に領知朱印状を発給し、全国の土地領有者としての地位を示しました。

1619(元和5)年には、福島正則を武家諸法度違反で改易するなど、法度を厳守させるとともに、長く功績のあった外様大名も処分できる将軍の力量を示しました。

参勤交代の制度化

3代将軍徳川家光1635(寛永12)年、新たな武家諸法度(寛永令)を発布し、大名に国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強制しました。こうして将軍と諸大名との主従関係が確立し、軍事力を独占した将軍と大名(幕府と藩)が土地と人民を統治する支配体制、すなわち幕藩体制が成立しました。

大名の分類

将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を大名といいます。大名は将軍との親疎関係で親藩(徳川氏一門)・譜代(古くからの家臣)・外様(関ヶ原前後に従った大名)に分けられ、幕府は親藩・譜代を要所に、有力な外様はなるべく辺境に配置しました。

ここが問われる: 大名統制の仕組み 列挙

一国一城令(1615年):居城を1つに限定
武家諸法度(1615年〜):将軍代がわりに発布、大名の行動を規制
参勤交代(1635年制度化):1年交代で江戸に出仕、妻子は江戸に常駐
④大名の分類:親藩・譜代・外様。配置にも戦略的意図あり

4幕府の機構 ─ 老中・三奉行・遠国奉行

幕府の財政収入は、約400万石(17世紀末)におよぶ直轄領(幕領)からの年貢のほか、佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森など主要鉱山からの収入でした。また、江戸・京都・大坂・長崎・堺などの重要都市を直轄にして商工業や貿易を統制しました。

幕府の職制は、家光の頃までに整備されました。政務を統轄する老中を中心に、臨時の最高職である大老、老中を補佐し旗本を監督する若年寄、大名を監察する大目付、旗本・御家人を監察する目付が置かれました。

実務を担う三奉行として、寺社奉行町奉行(江戸)・勘定奉行が設置されました。地方には京都所司代が置かれて西国大名の監視や朝廷の統制にあたり、大坂・駿府には城代、長崎・佐渡・日光などには奉行(遠国奉行)が配置されました。

ここが問われる: 幕府の職制 列挙

老中:政務の統轄(譜代大名から任命)
大老:臨時の最高職
若年寄:老中を補佐、旗本を監督
三奉行:寺社奉行・町奉行・勘定奉行
京都所司代:西国大名の監視・朝廷の統制
※役職には譜代大名・旗本が月番交代でつき、評定所で合議

5朝廷の統制 ─ 禁中並公家諸法度

幕府は1615(元和元)年禁中並公家諸法度を制定し、朝廷運営の基準としました。公家の務めとして家職(家業)と学問を定め、京都所司代や武家伝奏を通じて天皇・公家の生活・行動を規制しました。

1620(元和6)年には、秀忠の娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させました。1629(寛永6)年紫衣事件では、天皇が幕府に届け出なく紫衣着用を許可したことを問題にし、幕府の法度が天皇の勅許に優先することを示しました。

幕府はなぜ朝廷を統制したのか
天皇・朝廷がみずから権力をふるったり、他の大名に利用されることを防ぐ
禁中並公家諸法度で公家の行動を規制、武家伝奏を通じて指示
紫衣事件で幕府の法度が天皇の勅許に優先することを明示
国家祭礼・官位制度・改元・改暦などの朝廷の権能も幕府の全国支配に利用

6キリスト教の禁圧と鎖国

禁教政策

幕府はキリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを感じ、また信徒が信仰のために団結することも警戒しました。1612(慶長17)年に直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国におよぼして信者に改宗を強制しました。

島原の乱

1637(寛永14)年、領主の重い年貢とキリスト教弾圧に抵抗した土民・百姓が天草四郎(益田時貞)を首領に原城跡に立てこもりました(島原の乱)。幕府は約12万人の兵力を動員し、翌年鎮圧しました。

鎖国体制の確立

幕府は段階的に貿易・渡航を制限しました。1633(寛永10)年に奉書船以外の海外渡航を禁止、1635年に日本人の海外渡航と帰国を全面禁止しました。島原の乱の後、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移しました。

こうして日本はいわゆる鎖国の状態となり、以後200年余り、長崎のオランダ商館・中国商船と、朝鮮・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになりました。

ここが問われる: 鎖国の段階的形成 変化

1612年:直轄領に禁教令 → 翌年全国化
1624年:スペイン船の来航禁止
1635年:日本人の海外渡航・帰国を全面禁止
1637〜38年島原の乱の鎮圧
1639年:ポルトガル船の来航禁止
1641年:オランダ商館を出島に移す → 鎖国体制の完成

7「四つの窓口」─ 対外関係の実態

鎖国下でも、幕府は「四つの窓口」を通じて対外関係を維持しました。

長崎 ─ オランダ・中国との貿易

オランダは出島に商館を置き、貿易の利益のみを求めました。中国(清)の民間商船も長崎に来航し、生糸・絹織物・書籍などをもたらしました。幕府はオランダ商館長が提出するオランダ風説書によって海外情勢を把握しました。

対馬 ─ 朝鮮との関係

対馬藩主の宗氏を通じて朝鮮との国交が回復され、1609年己酉約条が結ばれました。朝鮮からは将軍の代がわりごとに朝鮮通信使が来日し、計12回の使節が派遣されました。

薩摩 ─ 琉球王国

1609年、薩摩の島津家久が琉球王国を征服しました。琉球は薩摩藩の支配下に入りながら、独立した王国として中国(明・清)との朝貢貿易を継続し、幕府と中国との二重の外交体制を保ちました。

松前 ─ アイヌとの交易

蝦夷地では松前氏がアイヌとの交易独占権を保障され、商場知行制が敷かれました。1669年シャクシャインの戦いでアイヌは松前藩に全面的に服従させられ、やがて場所請負制度へと移行しました。

ここが問われる: 四つの窓口 列挙

長崎:オランダ(出島)・中国商船との貿易
対馬:宗氏を通じた朝鮮との外交・貿易
薩摩:島津氏による琉球支配(中国との二重外交)
松前:松前氏によるアイヌとの交易(商場知行制)

8寛永期の文化

幕藩体制が安定するにつれて、寛永期(1624〜44年)前後に桃山文化を受け継ぎつつ新しい傾向が現れました。

学問では、朱子学を中心に儒学が盛んになりました。朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩に受け入れられました。京都の藤原惺窩は儒学の啓蒙につとめ、門人の林羅山(道春)は家康に用いられて代々儒者として幕府に仕えました。

建築では、日光東照宮に権現造が用いられ、桃山文化の影響を受けた豪華な彫刻がほどこされました。絵画では狩野探幽が幕府の御用絵師となり、京都では俵屋宗達が装飾画に新様式を生み出しました。陶磁器では有田焼が盛んとなり、酒井田柿右衛門が赤絵を完成させました。

9この記事のつながり

幕藩体制の成立は、戦国の動乱を経て織豊政権が進めた天下統一を完成させた過程です。武家諸法度・参勤交代・鎖国といった幕藩体制の柱は、以後260年にわたって日本社会の基本構造を規定しました。

  • ← 8-1 織豊政権:太閤検地・刀狩・兵農分離が幕藩体制の前提
  • → 9-2 幕藩社会の構造:武士・百姓・町人の身分秩序と村・町の運営
  • → 9-3 幕政の安定:4代家綱〜6代家宣の政治と元禄時代
  • 鎖国 → 対外関係の変容:19世紀の開国圧力と幕末の動乱へ

10まとめ

  • 1600年関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開く
  • 1615年一国一城令武家諸法度禁中並公家諸法度を制定
  • 3代家光が参勤交代を制度化し(1635年)、将軍と大名の主従関係が確立
  • 大名は親藩・譜代・外様に分類。幕府の職制は老中を中心に三奉行で整備
  • 島原の乱(1637〜38年)を経て、1641年に鎖国体制が完成
  • 「四つの窓口」(長崎・対馬・薩摩・松前)で対外関係を維持
この章を100字で要約すると

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は江戸幕府を開き、武家諸法度・参勤交代で大名を統制し、禁中並公家諸法度で朝廷を規制した。キリスト教禁圧と貿易統制を進めて鎖国体制を確立し、長崎・対馬・薩摩・松前の四つの窓口で対外関係を維持した。

11穴埋め・一問一答

Q1. 1600年、石田三成ら西軍と徳川家康ら東軍が激突した戦いを何というか。

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関ヶ原の戦い。家康が勝利し、西軍の大名を処分した。

Q2. 1615年に制定され、大名の居城を1つに限った法令を何というか。

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一国一城令。同年に武家諸法度(元和令)も制定された。

Q3. 大名に国元と江戸を1年交代で往復させる制度を何というか。

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参勤交代。1635年の武家諸法度(寛永令)で制度化された。

Q4. 1637〜38年、島原半島と天草で起きた大規模な一揆を何というか。

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島原の乱。天草四郎(益田時貞)を首領として原城に立てこもった。

Q5. 1641年にオランダ商館が移された、長崎港内の人工島を何というか。

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出島。以後、オランダとの貿易はここに限定された。

Q6. 対馬藩主の宗氏を通じて朝鮮から派遣された使節を何というか。

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朝鮮通信使。江戸時代を通じて計12回来日した。

Q7. 家康に用いられ、代々儒者として幕府に仕えた朱子学者は誰か。

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林羅山(道春)。藤原惺窩の門人で、林家は代々幕府の儒者を務めた。

12アウトプット演習

問1 A 基礎 変化

江戸幕府が鎖国体制を確立するまでの段階的な過程を、1612年から1641年までの主要な出来事を挙げて説明せよ。

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解答

1612年に直轄領に禁教令を出し翌年全国に拡大した。1624年にスペイン船の来航を禁止し、1633年に奉書船以外の海外渡航を禁止、1635年に日本人の海外渡航と帰国を全面禁止した。1637〜38年の島原の乱鎮圧後、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移して鎖国体制が完成した。

問2 B 標準 比較

鎖国下における「四つの窓口」について、それぞれの相手・担い手・特徴を整理せよ。

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解答

①長崎:幕府直轄。オランダ(出島)と中国商船との貿易。オランダ風説書で海外情勢を把握。
②対馬:宗氏が仲介。朝鮮と己酉約条を結び、釜山に倭館を設置。朝鮮通信使が来日。
③薩摩:島津氏が琉球を支配。琉球は中国との朝貢貿易を継続し、幕府と中国の二重外交を維持。
④松前:松前氏がアイヌとの交易を独占。商場知行制からのち場所請負制度へ移行。