室町時代には、武家文化と公家文化の融合が進み、さらに大陸文化と伝統文化の融合も深まりました。
義満の北山文化、義政の東山文化を中心としながらも、両者は強い連続性をもっています。
能・狂言・茶の湯・水墨画・書院造など、今日の日本の伝統文化の多くがこの時代に基盤を確立しました。
室町時代の文化は、幕府が京都に開かれたことによって武家文化と公家文化の融合が進み、また東アジアとの活発な交流にともなって大陸文化と伝統文化の融合も進みました。こうした文化の融合を主導したのは幕府の将軍でした。
一方、農村や都市の民衆も独自の文化を形成し、しだいに中央の文化に影響を与えるようになりました。今日、日本の伝統文化の代表とされる能・狂言・茶の湯・生花などの多くは、この時代に基盤を確立したものです。
①武家文化と公家文化の融合(幕府が京都にあるため)
②大陸文化と伝統文化の融合(日明貿易などの交流)
③禅宗が文化の媒介者として大きな役割
④庶民文化の台頭と中央文化への影響
南北朝時代には、時代の転換期に高まった緊張感を背景に、歴史書や軍記物語がつくられました。歴史書には、源平争乱以後の歴史を公家の立場から記した『増鏡』、伊勢神道の理論を背景に南朝の立場から皇位継承の道理を説いた北畠親房の『神皇正統記』、武家の立場から記した『梅松論』などがあります。
軍記物語では、南北朝の動乱の全体を描いた大作『太平記』がつくられ、広く普及して後世まで語り継がれました。また、武家・公家を問わず連歌が流行し、茶の異同を飲みわけて景品を争う闘茶も流行しました。こうした新興武士たちの派手な気風はバサラと呼ばれました。
『神皇正統記』:北畠親房。南朝の正統性を主張
『増鏡』:公家の立場から記した歴史物語
『梅松論』:武家の立場から幕府の成立過程を記す
『太平記』:南北朝の動乱を描いた軍記物語の大作
14世紀末、足利義満は将軍職を子の義持に譲ったのちも政務をとり続け、京都の北山に壮大な山荘(北山殿)をつくりました。そこに建てられた3層の金閣(舎利殿)は、伝統的な寝殿造風と禅宗寺院の禅宗様を折衷したもので、文化の融合をよく示す建築様式です。義満の死後、北山殿は鹿苑寺となりました。
武家社会の上層に広まった臨済宗は、幕府の保護のもとで大いに栄えました。宋の官寺の制にならった五山・十刹の制も義満の時代にほぼ完成しました。五山の禅僧には中国からの渡来僧や留学僧が多く、禅だけでなく水墨画や建築・庭園様式なども広く伝えました。
禅僧のあいだでは宋学の研究や漢詩文の創作も盛んで、義満の頃には絶海中津・義堂周信らが出て最盛期を迎えました(五山文学)。彼らは幕府の政治・外交顧問としても活躍し、経典・漢詩文集の出版(五山版)もおこないました。
金閣:寝殿造風+禅宗様の折衷建築。鹿苑寺に現存
五山文学:絶海中津・義堂周信ら。漢詩文・宋学の研究
五山版:禅僧による出版活動
※文化の融合を将軍が主導した点が重要
古く神事芸能として出発した猿楽や田楽の中から、しだいに歌舞・演劇のかたちをとる能が発達しました。寺社の保護を受けて能を演じる専門集団(座)が現れ、なかでも興福寺を本所とした観世・宝生・金春・金剛座の四座を大和猿楽四座といいます。
観世座から出た観阿弥・世阿弥父子は、将軍義満の保護を受けて芸術性の高い猿楽能を完成しました。世阿弥は能の脚本である謡曲を数多く著すとともに、能の真髄を述べた理論書『風姿花伝』(花伝書)を残しました。
能のあいだに演じられるようになった狂言は、風刺性の強い喜劇で、題材を民衆の生活などに求め、日常の会話が用いられたため、とくに民衆に親しまれました。
猿楽・田楽 → 歌舞・演劇の能が発達
大和猿楽四座:観世・宝生・金春・金剛
観阿弥・世阿弥父子が芸術性の高い能を完成
『風姿花伝』:世阿弥の能楽理論書
狂言:能のあいだに演じられる風刺的な喜劇
8代将軍足利義政は、応仁の乱後、京都の東山に山荘をつくり、義満にならって銀閣を建てました。銀閣は2層からなる仏殿で、初層は住宅風の様式、2層目は禅宗様でした。義政の死後、東山殿は慈照寺となりました。
同じ山荘内の東求堂同仁斎には書院造の様式がみられ、近代の和風住宅の原型となりました。書院造は、畳を敷き、天井を張り、明障子を用い、押板(床の間の前身)・棚・付書院を備えた住宅様式です。
書院造の住宅や禅宗様の寺院には、禅の精神で統一された庭園がつくられました。白砂利を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した枯山水は、龍安寺・大徳寺大仙院などの庭園が有名です。
水墨画は墨の濃淡で自然や人物を象徴的に表現するもので、明兆・如拙・周文らによって日本の水墨画の基礎が築かれました。とくに雪舟は明に渡って作画技術を学び、帰国後、禅画の制約を乗り越えた日本的な水墨画様式を創造しました。
大和絵では土佐光信が土佐派の基礎を固め、狩野正信・元信父子は水墨画に大和絵の手法を取り入れて狩野派をおこしました。
銀閣:慈照寺。住宅風+禅宗様の2層建築
書院造:東求堂同仁斎に代表。近代和風住宅の原型
枯山水:龍安寺・大徳寺大仙院の庭園
雪舟:明に渡り日本的な水墨画を確立
狩野派:狩野正信・元信。水墨画+大和絵の融合
土佐派:土佐光信。大和絵の伝統を継承
村田珠光は、茶と禅の精神の統一を主張し、茶室で心の静けさを求める侘茶を創出しました。この方式はのちの武野紹鷗を経て千利休によって完成されます。生花(立花)も、座敷の床の間を飾る様式が定まり、京都六角堂の池坊専慶が名手として知られました。
連歌は和歌を上の句と下の句にわけ、一座の人々がつぎつぎに句をよみ継いでいく共同作品です。南北朝時代に二条良基が『菟玖波集』を撰し、連歌の規則書『応安新式』を制定しました。応仁の頃には宗祇が出て正風連歌を確立し、『新撰菟玖波集』を撰しました。一方、山崎宗鑑はより自由な気風をもつ俳諧連歌をつくり出しました。
民衆の地位の向上により、庶民の文芸も生まれました。民衆に好まれた物語に御伽草子があり、小歌の歌集として『閑吟集』が編集されました。また今日の盆踊りもこの時代に風流と念仏踊りが結びついて定着しました。京都では応仁の乱で途絶えた祇園祭が町衆の手で再興されました。
二条良基:『菟玖波集』『応安新式』を制定
宗祇:正風連歌を確立。『新撰菟玖波集』『水無瀬三吟百韻』
山崎宗鑑:俳諧連歌を創出。『犬筑波集』
※連歌師が各地を遊歴し、地方にも広く普及
応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や文化人が地方の戦国大名を頼って地方へくだりました。大内氏の城下町山口には多くの文化人が集まり、儒学や和歌の講義がおこなわれました。関東では15世紀中頃に関東管領上杉憲実が足利学校を再興し、全国から集まった禅僧・武士に高度な教育がほどこされました。
鎌倉仏教の各宗派は武士・農民・商工業者の信仰を得て広まりました。とくに浄土真宗(一向宗)の蓮如は、阿弥陀仏の救いを平易な文章(御文)で説き、講を組織して惣村に広めました。蓮如を中心とする布教で本願寺の勢力は近畿・東海・北陸に拡大し、各地で一向一揆がおこりました。
京都では商工業者に日蓮宗(法華宗)の信者が多く、1532年には法華一揆を結んで町政を自治的に運営しましたが、1536年の天文法華の乱で延暦寺に焼き打ちされ、一時京都を追われました。神道では、吉田兼倶が唯一神道(吉田神道)を完成させました。
蓮如:本願寺8世。御文(御文章)で平易に教えを説く
講を組織して惣村に広めた → 近畿・東海・北陸に勢力拡大
門徒の結束が強大化 → 各地で一向一揆が発生
※加賀の一向一揆(1488年〜)は約1世紀にわたり門徒が支配
室町文化は武家・公家・庶民の文化を融合させ、今日の日本の伝統文化の基盤をつくりました。書院造は近世の住宅に、茶の湯は安土桃山文化の千利休に、能は江戸時代の式楽に、それぞれ受け継がれていきます。
室町文化は武家・公家・大陸文化の融合が特色で、義満の金閣(北山文化)、義政の銀閣・書院造(東山文化)を中心に発展した。観阿弥・世阿弥が能を完成し、雪舟が水墨画を確立。茶の湯・連歌・御伽草子など庶民文化も花開いた。
Q1. 足利義満が京都北山に建てた3層の建築物を何というか。死後、寺院は何と呼ばれるか。
Q2. 義満の保護を受けて能を大成した父子は誰か。
Q3. 世阿弥が著した能の理論書を何というか。
Q4. 近代和風住宅の原型となった書院造の代表例は何か。
Q5. 明に渡って水墨画を学び、日本的な水墨画様式を確立した画僧は誰か。
Q6. 侘茶を創出した人物は誰か。
Q7. 浄土真宗本願寺派を近畿・北陸に広めた人物は誰か。布教の手段は何か。
北山文化と東山文化を、代表的な建築・担い手・文化の特色の観点から比較せよ。
北山文化:代表的建築は金閣(鹿苑寺)。3代将軍義満が主導。寝殿造風と禅宗様を折衷した華やかな文化で、五山文学が最盛期を迎え、能が大成された。
東山文化:代表的建築は銀閣(慈照寺)と東求堂同仁斎(書院造)。8代将軍義政の時代。禅の精神にもとづく簡素さと幽玄・侘びの美意識を基調とし、枯山水の庭園・水墨画・侘茶などが発達した。
応仁の乱後、文化が地方に普及した理由とその具体例を述べよ。
応仁の乱で京都が荒廃すると、荘園からの収入を失った公家や文化人が地方の戦国大名を頼って各地にくだった。大名側も中央文化への憧れから積極的にこれを迎えた。具体例として、大内氏の城下町山口には多くの文化人が集まって儒学や和歌の講義がおこなわれ、関東では上杉憲実が足利学校を再興して禅僧・武士に高度な教育がほどこされた。また連歌師が各地を遊歴して普及につとめ、地方でも大名・武士・民衆のあいだに連歌が広く流行した。