第7章 武家社会の成長

幕府の衰退と庶民の台頭
─ 惣村・土一揆・応仁の乱

義満の全盛期のあと、6代将軍義教の暗殺(嘉吉の変)をきっかけに将軍の権威はゆらぎ始めました。
農村では惣村が自治的な運営を進め、土一揆が頻発します。やがて応仁の乱が勃発して京都は荒廃し、下剋上の風潮が全国に広がっていきました。
商工業の発達や貨幣経済の浸透が、社会の大きな変動を支えていきます。

1時代の見取り図 ─ いつ・何が起きたのか

幕府の衰退と庶民の台頭(15世紀〜)

義持の安定期
義教の専制
応仁の乱と下剋上
14081429146715世紀末〜
おもなできごと
1428年正長の土一揆(近畿地方に広がる)
1438年永享の乱(義教が鎌倉公方持氏を討伐)
1441年嘉吉の変(赤松満祐が義教を殺害)。嘉吉の徳政一揆
1467年応仁の乱が始まる(〜1477年)
1485年山城の国一揆(8年間の自治的支配)
1488年加賀の一向一揆(約1世紀にわたり門徒が支配)

2惣村の形成と自治

惣村の成立

鎌倉時代後期から、荘園や公領の内部にいくつかの村が自然発生的に生まれ、南北朝の動乱の中でしだいに各地に広がりました。農民たちがみずからつくり出したこの自立的・自治的な村をまたは惣村といいます。

惣村は、古くからの有力農民であった名主層に加え、新しく成長してきた小農民も構成員としていました。村の神社の祭礼や農業の共同作業などを通じて結束を強め、寄合という村民の会議で重要事項を決定しました。

惣村の運営

惣村は乙名(おとな)・沙汰人と呼ばれる村の指導者によって運営されました。村民は自分たちが守るべき規約である惣掟(村法・村掟)を定め、村内の秩序を維持するために村民みずからが警察権を行使すること(地下検断・自検断)もありました。

また、農業生産に必要な山や野原などの共同利用地(入会地)を確保し、灌漑用水の管理もおこなうようになりました。領主へおさめる年貢などを惣村がひとまとめにして請け負う地下請(村請・百姓請)も広がっていきました。

ここが問われる: 惣村の自治の仕組み 列挙

寄合:村民の会議で重要事項を決定
惣掟(村法):村民が定めた自治規約
地下検断:村民みずからが警察権を行使
入会地:山野の共同利用地の確保
地下請:年貢を惣村がまとめて請け負う

惣村の実力行使

強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、不法な代官の免職や年貢の減免を求めて一揆を結び、荘園領主のもとに大挙しておしかける強訴や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込む逃散などの実力行使をしばしばおこないました。また有力者の中には守護と主従関係を結んで武士化する者(地侍)も多く現れました。

3幕府の動揺と土一揆

義教の専制と嘉吉の変

義満のあとを継いだ4代将軍足利義持の時代は比較的安定していましたが、6代将軍足利義教は将軍権力の強化をねらって専制的な政治をおこないました。義教は1438(永享10)年に関東へ討伐軍を送り、鎌倉公方足利持氏を討ちました(永享の乱)。

しかし義教はその後も有力守護を弾圧したため、1441(嘉吉元)年に有力守護の赤松満祐に殺害されました(嘉吉の変)。これ以降、将軍の権威は大きくゆらいでいきました。

土一揆の頻発

近畿地方を中心に頻繁に発生するようになったのが土一揆(徳政一揆)です。土一揆は惣村の結合をもとにした農民勢力が、一部の都市民や困窮した武士とともに徳政を求めて蜂起したものです。

1428(正長元)年正長の土一揆は京都の土倉・酒屋を襲い、質物や売買・貸借証文を奪い、たちまち近畿地方やその周辺に広がりました。各地で実力による債務破棄・売却地の取り戻し(私徳政)が展開されました。

1441年嘉吉の徳政一揆では、数万人の土一揆が京都を占拠し、幕府はついに土一揆の要求を入れて徳政令を発布しました。この後も土一揆はしばしば蜂起し、幕府も徳政令を乱発するようになりました。

土一揆が頻発したのはなぜか
貨幣経済の浸透 → 土倉などの高利貸資本が農村にまで広がる
農民や小商人が借金で困窮 → 債務破棄(徳政)を求める
惣村の強い連帯意識を基盤に一揆を結成
支配者の交代時に「天下一同の徳政」を求める社会観念が背景に

中世には支配者の交代によって社会関係が改められるという観念があり、将軍交代時に「代始めの徳政」を要求する土一揆がたびたび起きました。

ここが問われる: おもな土一揆 変化

1428年正長の土一揆 → 京都の土倉・酒屋を襲う。近畿に拡大
1441年嘉吉の徳政一揆 → 幕府が初めて徳政令を発布
分一徳政令:手数料(分一銭)を幕府に納めることを条件に債務破棄を認める方式

4応仁の乱と下剋上

応仁の乱の勃発

嘉吉の変後、有力守護家や将軍家にあいついで内紛がおこりました。畠山斯波の両管領家に家督争いがおこり、将軍家でも8代将軍足利義政の弟義視と、子の義尚を推す義政の妻日野富子のあいだに後継者争いが生じました。

幕府の実権をめぐって争っていた細川勝元山名持豊(宗全)がこれらの争いに介入して対立が激化し、1467(応仁元)年応仁の乱が始まりました。守護大名はそれぞれ東軍(細川方)と西軍(山名方)にわかれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれて荒廃しました。

応仁の乱の影響

1477(文明9)年、戦いに疲れた両軍のあいだに和議が結ばれましたが、争乱はその後も地域紛争として全国に広がっていきました。有力守護が在京して幕政に参加する体制は崩壊し、同時に荘園制の解体も進みました。

国一揆と下剋上

守護大名が京都で戦いを繰り返していた頃、領国では守護代や有力国人が力をのばし、領国支配の実権はしだいに彼らに移っていきました。1485(文明17)年山城の国一揆では、南山城地方で争っていた畠山氏の軍を国外に退去させ、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現しました。

1488(長享2)年加賀の一向一揆は、浄土真宗本願寺派の門徒が国人と手を結び守護を倒したもので、約1世紀にわたって門徒による支配が続きました。このように、下の者の力が上の者の勢力をしのいでいく現象を下剋上といいます。

ここが問われる: 応仁の乱の構図と影響 結果・影響

東軍細川勝元西軍山名持豊(宗全)
背景:畠山・斯波の家督争い+将軍家の後継者争い
1467〜1477年:京都を主戦場に争う → 京都が荒廃
影響:①守護在京体制の崩壊 ②荘園制の解体 ③下剋上の風潮

5産業の発達と商工業

農業の発展

室町時代の農業は、土地の生産性を向上させる集約化・多角化が進みました。灌漑や排水施設の整備により、畿内では二毛作に加え三毛作もおこなわれるようになりました。水稲の品種改良も進み、早稲・中稲・晩稲の作付けが普及しました。肥料には下肥が広く使われ、商品作物として茶・桑・楮・漆・藍・麻などの栽培も盛んになりました。

手工業と商業

地方の産業が発達し、各地の特色を生かした特産品が生産されるようになりました。京都では高級織物や酒造業が発展し、各地の市場はその数と市日を増して、月に3回の三斎市から応仁以後は6回の六斎市が一般化しました。

手工業者や商人のも数が増えましたが、15世紀以降は座に加わらない新興商人が出現し、地方には本所をもたない新しい性格の座(仲間)も増えていきました。

貨幣経済と金融業

貨幣は従来の宋銭とともに永楽通宝などの明銭が使用されましたが、粗悪な私鋳銭(びた銭)も流通するようになり、良質の銭を選ぶ撰銭がおこなわれて流通が阻害されました。幕府や戦国大名は撰銭令をしばしば発布しました。

土倉と呼ばれる高利貸業を兼ねた富裕な商工業者が多く、幕府はこれらの土倉酒屋土倉役酒屋役を課しました。遠隔地取引では割符(為替手形)が利用され、馬借車借と呼ばれる運送業者も活躍しました。

ここが問われる: 室町時代の商工業 列挙

六斎市:応仁の乱後に一般化(三斎市→六斎市)
:本所の保護のもと営業独占。15世紀以降は新興商人も
撰銭:粗悪な私鋳銭を嫌い良銭を選ぶ行為 → 撰銭令で対応
土倉・酒屋:高利貸業。幕府の重要な財源(土倉役・酒屋役)
馬借・車借:運送業者。京都への物資輸送で活躍

6この記事のつながり

惣村の自治と土一揆は、鎌倉時代後期以来の農民の成長を背景とし、応仁の乱後は下剋上の風潮の中で戦国時代へと移行していきます。商工業の発達は、のちの城下町の繁栄や戦国大名の経済政策の前提となります。

  • ← 7-1 室町幕府の成立:義満が築いた全盛期が、義教の暗殺を境に崩れていく
  • 惣村の自治 → 7-4 戦国大名の登場:地侍や国人一揆が戦国大名の家臣団の基盤に
  • 応仁の乱 → 下剋上:守護在京体制の崩壊が、守護代・国人の台頭と戦国大名の登場を促す
  • 商工業の発達 → 近世:座の解体・楽市楽座が織豊政権の経済政策につながる

7まとめ

  • 惣村が各地に広がり、寄合惣掟地下検断地下請で自治を実現
  • 6代将軍義教嘉吉の変(1441年)で殺害され、将軍の権威が失墜
  • 正長の土一揆(1428年)以降、徳政を求める土一揆が近畿で頻発
  • 応仁の乱(1467〜1477年)で京都が荒廃し、守護在京体制が崩壊
  • 山城の国一揆(1485年)・加賀の一向一揆(1488年)に下剋上の風潮
  • 農業の集約化、六斎市の一般化、土倉酒屋の金融活動で商品経済が発展
この章を100字で要約すると

惣村が自治を進め土一揆が頻発する中、嘉吉の変で将軍権威が失墜。応仁の乱で京都が荒廃し守護在京体制が崩壊すると、山城の国一揆や加賀の一向一揆にみられる下剋上の風潮が広がった。農業の集約化や貨幣経済の発達が社会変動を支えた。

8穴埋め・一問一答

Q1. 農民がみずからつくり出した自立的・自治的な村を何というか。

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(そう)または惣村。寄合で決定し、惣掟で自治をおこなった。

Q2. 惣村が領主への年貢をまとめて請け負うことを何というか。

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地下請(じげうけ)。村請・百姓請ともいう。

Q3. 1441年、6代将軍義教を殺害した守護は誰か。この事件を何というか。

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赤松満祐が殺害。嘉吉の変という。以後、将軍の権威が大きくゆらいだ。

Q4. 応仁の乱で東軍を率いた人物と西軍を率いた人物をそれぞれ答えよ。

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東軍:細川勝元。西軍:山名持豊(宗全)。1467〜1477年、京都を主戦場に戦った。

Q5. 1485年、畠山氏の軍を退去させ8年間の自治を実現した一揆を何というか。

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山城の国一揆。南山城地方の住民の支持を得て自治的支配を実現した。

Q6. 下の者の力が上の者をしのいでいく現象を何というか。

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下剋上(げこくじょう)。応仁の乱後の時代の特徴をあらわすことば。

Q7. 粗悪な私鋳銭を嫌って良質の銭を選ぶ行為を何というか。

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撰銭(えりぜに)。流通が阻害されたため、幕府や戦国大名は撰銭令を出した。

9アウトプット演習

問1 A 基礎 列挙

惣村における自治の仕組みを、4つの具体的な制度・慣行を挙げて説明せよ。

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解答

①寄合:村民の会議で重要事項を決定する。②惣掟(村法):村民が守るべき規約を自ら定める。③地下検断(自検断):村民みずからが警察権を行使して秩序を維持する。④地下請(村請):年貢などを惣村がまとめて領主に請け負う。

問2 B 標準 原因

応仁の乱が起きた原因と、この乱が室町幕府の支配体制に与えた影響を述べよ。

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解答

原因:畠山・斯波の両管領家の家督争いと、将軍家における義視と義尚の後継者争いに、幕府の実権をめぐる細川勝元と山名持豊(宗全)の対立が絡み合い、1467年に応仁の乱が始まった。
影響:主戦場となった京都は荒廃し、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の支配体制が崩壊した。同時に荘園制の解体が進み、守護代や国人が力をのばして下剋上の風潮が全国に広がった。

問3 B 標準 比較

山城の国一揆と加賀の一向一揆の共通点と相違点を述べよ。

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解答

共通点:いずれも下剋上の風潮の中で、下の者が守護の支配を排除して自治的な支配を実現した点。
相違点:山城の国一揆は国人と住民が中心となり畠山氏の軍を退去させた世俗的な自治組織で、8年間続いた。一方、加賀の一向一揆は浄土真宗本願寺派の門徒が国人と結んで守護を倒した宗教的基盤をもつ一揆で、約1世紀にわたって支配が続いた。