第7章 武家社会の成長

室町幕府の成立
─ 南北朝の動乱から統一政権へ

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政はわずか2年余りで崩壊し、足利尊氏が新たな武家政権を打ち立てました。
南朝と北朝が約60年にわたって対立する南北朝の動乱を経て、3代将軍足利義満が南北朝を合体させ、室町幕府の全盛期を築きます。
日明貿易・日朝貿易を通じて東アジアとの交流も活発化し、幕府は全国的な統一政権へと成長していきました。

1時代の見取り図 ─ いつ・何が起きたのか

室町幕府の成立(14世紀前半〜15世紀前半)

建武の新政
南北朝の動乱
義満の全盛期
13331336139215世紀〜
おもなできごと
1333年鎌倉幕府の滅亡。後醍醐天皇が建武の新政を開始
1335年中先代の乱 → 足利尊氏が新政権から離反
1336年尊氏が建武式目を制定。南北朝の対立が始まる
1338年足利尊氏が征夷大将軍に就任
1350年代観応の擾乱(尊氏と直義の対立)
1378年義満が室町に邸宅(花の御所)を造営
1391年明徳の乱(山名氏を討伐)
1392年南北朝の合体
1399年応永の乱(大内義弘を討伐)
1401年義満が明に使者を派遣、日明貿易(勘合貿易)が始まる

2建武の新政と崩壊

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇は幕府の討幕を計画しましたが、1324(正中元)年の正中の変、1331(元弘元)年の元弘の変と、二度にわたり失敗して隠岐に流されました。しかし、天皇の皇子護良親王楠木正成らが各地で蜂起し、幕府軍の指揮官として派遣された足利高氏(のち尊氏)が幕府に背いて六波羅探題を攻め落とし、関東では新田義貞が鎌倉を攻めて北条氏一門を滅ぼしました。こうして1333(元弘3)年に鎌倉幕府は滅亡しました。

建武の新政

後醍醐天皇はただちに京都に帰り、翌1334(建武元)年、年号を建武と改めて新しい政治を始めました(建武の新政)。天皇は醍醐・村上天皇の親政を理想とし、摂政・関白をおかず、すべての土地所有権の確認には天皇の綸旨を必要とする法令を出して、天皇への権限集中をはかりました。

中央には記録所雑訴決断所を設置し、諸国には国司と守護を併置しましたが、武士社会に築かれていた慣習を無視したため、多くの武士の不満と抵抗を引きおこしました。

ここが問われる: 建武の新政が失敗した理由 原因

御成敗式目以来の武士社会の慣習を無視
②天皇中心の恩賞配分に武士が不満
③政治機構と内部の人間的対立で政務が停滞
※「二条河原落書」に新政の混乱ぶりが風刺されている

3南北朝の動乱

足利尊氏の離反と南北朝の対立

1335(建武2)年、北条高時の子時行が反乱をおこして鎌倉を占領しました(中先代の乱)。足利尊氏はその討伐のため関東にくだり、新政権に反旗をひるがえしました。

京都を制圧した尊氏は、持明院統の光明天皇を立て、幕府を開く方針を示した建武式目を定めました。これに対し後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野の山中にこもって正統の皇位を主張しました。ここに吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)が対立し、約60年におよぶ南北朝の動乱が始まりました。

動乱の長期化

南朝側では楠木正成・新田義貞が戦死するなど形勢は不利でしたが、北畠親房らが中心となり各地で抵抗を続けました。北朝側では1338(暦応元)年に尊氏が征夷大将軍に任じられ、弟の足利直義と政務を分担しました。

しかし、旧来の法秩序を重んじる直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とする武力による所領拡大を望む新興勢力が対立し、観応の擾乱へと発展しました。この内紛は尊氏派(幕府)・旧直義派・南朝の三つどもえの争いとなり、動乱を長引かせました。

南北朝の動乱が長期化したのはなぜか
鎌倉時代後期から惣領制が解体し、嫡子単独相続が一般化
武士団の内部に分裂と対立が生じる
一方が北朝につけば反対派は南朝につく → 動乱が全国化
幕府内部でも尊氏派と直義派の対立(観応の擾乱)

惣領制の解体による武士団内部の分裂が、動乱を長期化・全国化させた最大の要因です。

ここが問われる: 南北朝の動乱の構図 変化

南朝(吉野)=大覚寺統。後醍醐天皇・北畠親房・楠木正成ら
北朝(京都)=持明院統。足利尊氏が光明天皇を擁立
1336年:尊氏が建武式目を制定 → 幕府再興の方針
1338年:尊氏が征夷大将軍に就任
※惣領制の解体が動乱長期化の背景

4守護大名と国人一揆

守護の権限拡大

動乱の中で地方武士の力が増大すると、幕府は武士を動員するために守護の権限を大幅に拡大しました。鎌倉幕府の守護の職権であった大犯三ヵ条に加え、刈田狼藉の取り締まりや幕府の裁判の判決を強制執行する使節遵行の権限が新たに与えられました。

とくに半済令は、軍費調達のために守護に一国内の荘園や公領の年貢の半分を徴発する権限を認めたもので、やがて年貢だけでなく土地も分割するようになりました。守護はこれらの権限を利用して国内の武士たちを統制下に組み入れ、一国全体におよぶ支配権を確立する者も現れました。鎌倉時代の守護と区別して、この時代の守護を守護大名と呼びます。

国人一揆

しかし守護の力が弱い地域では、国人と呼ばれた地方在住の武士たちが自主的に紛争を解決したり、地域的な国人一揆を結成したりしました。国人一揆では、参加者の平等を示す傘連判という独自の署名方法が用いられ、多数決で決定をおこなうなどの規約が定められていました。

ここが問われる: 室町時代の守護の権限拡大 比較

鎌倉時代の守護:大犯三ヵ条のみ
室町時代の守護に追加:刈田狼藉の取締り、使節遵行半済令による年貢徴発
→ 荘園・公領を侵略し、武士を統制下に組み入れる
→ 一国全体の支配権を確立 = 守護大名

5足利義満と幕府の全盛

南北朝の合体

3代将軍足利義満のころにはしだいに動乱がおさまり、幕府は安定の時を迎えました。義満は1392(明徳3)年、南朝側と交渉して南北朝の合体を実現し、約60年におよぶ内乱に終止符を打ちました。

有力守護の抑制

義満は、動乱の中で強大となった守護の統制をはかり、土岐氏土岐康行の乱、1390年)・山名氏明徳の乱、1391年)・大内氏応永の乱、1399年)などの外様の有力守護を攻めて勢力の削減につとめました。これらはいずれも義満の挑発によって引きおこされた事件です。

幕府の機構

義満は1378(永和4)年に京都の室町に壮大な邸宅(室町殿・花の御所)をつくり、ここで政治をおこなったので、室町幕府と呼ばれるようになりました。

将軍を補佐する中心的な職が管領で、侍所・問注所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に将軍の命令を伝達しました。管領には足利氏一門の細川斯波畠山の3氏(三管領)が交代で任命されました。京都内外の警備や刑事裁判をつかさどる侍所の長官(所司)は、赤松一色山名京極の4氏(四職)から任命されました。

将軍権力を支える軍事力として奉公衆と呼ばれる直属軍が編成されました。奉公衆は平時は将軍の護衛にあたるとともに、将軍の直轄領である御料所の管理をゆだねられ、守護の動向を牽制する役割も果たしました。

鎌倉府

足利尊氏は関東を重視し、その子基氏鎌倉公方(関東公方)として鎌倉府を開かせ、東国の支配を任せました。鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏が世襲しました。鎌倉府は権限が大きかったため、やがて京都の幕府としばしば衝突するようになりました。

ここが問われる: 室町幕府の機構 列挙

管領:将軍補佐。三管領(細川・斯波・畠山)
侍所:京都の警備・刑事裁判。四職(赤松・一色・山名・京極)
奉公衆:将軍直属の軍事力。御料所の管理も担当
鎌倉府:関東支配。鎌倉公方+関東管領(上杉氏)
※有力守護は在京して幕政に参加するのが原則

6東アジアとの交易

日明貿易(勘合貿易)

中国では1368年が建国され、中国を中心とする伝統的な国際秩序の回復を目指して近隣諸国に通交を求めました。足利義満は1401(応永8)年に明に使者を派遣して国交を開きました。

この日明貿易は、将軍が明の皇帝に朝貢する形式(朝貢貿易)をとらなければならず、遣明船は明から交付された勘合という証票を持参することを義務づけられたため、勘合貿易ともいわれます。義満は明の皇帝から「日本国王」の称号を得ました。

朝貢形式の貿易は滞在費・運搬費などすべて明側が負担したため、日本側の利益は大きく、とくに大量にもたらされた永楽通宝などの銅銭は、日本の貨幣流通に大きな影響を与えました。

日明貿易は4代将軍足利義持が朝貢形式を不服として一時中断し、6代将軍義教の時に再開されました。15世紀後半には貿易の実権が細川氏(堺商人と結ぶ)や大内氏(博多商人と結ぶ)の手に移り、1523年の寧波の乱を経て大内氏が独占しましたが、大内氏の滅亡とともに断絶しました。

日朝貿易

朝鮮半島では1392年李成桂が高麗を倒し、朝鮮を建てました。日朝貿易は幕府だけでなく守護・国人・商人なども参加し、朝鮮側は対馬の宗氏を通して貿易を統制しました。朝鮮は三浦(富山浦・乃而浦・塩浦)を開いて日本人の居住と貿易を認めましたが、1510年の三浦の乱以降、貿易はしだいに衰えていきました。

ここが問われる: 日明貿易の特徴 内容・特徴

朝貢形式(将軍が「日本国王」として明皇帝に朝貢)
勘合を持参 → 倭寇と区別するための証票
③費用は明側が全額負担 → 日本側の利益が大きい
④輸出品:刀剣・銅・硫黄 / 輸入品:銅銭・生糸・書画
⑤義持が中断 → 義教が再開 → 細川氏vs大内氏の争い

7琉球・蝦夷ヶ島との交流

琉球王国

琉球では三山(山北・中山・山南)が争っていましたが、1429年に中山王の尚巴志が統一して琉球王国を建てました。琉球は明やアジア諸国と国交を結び、明の海禁政策のもとで東アジア諸国間の中継貿易に活躍し、王国の都首里の外港那覇は国際貿易港として繁栄しました。

蝦夷ヶ島とアイヌ

本州から北海道南部に進出した人々は和人と呼ばれ、津軽の安藤(安東)氏の支配下で各地に館(道南十二館)をつくりました。1457(長禄元)年、和人の圧迫にたえかねたアイヌは大首長コシャマインを中心に蜂起しましたが、蠣崎氏(のちの松前氏)によって制圧されました。

8この記事のつながり

鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱を経て室町幕府が成立する過程は、武家社会の構造変化(惣領制の解体・守護権限の拡大)と不可分です。幕府の財政や対外関係は、のちの幕府の衰退や戦国大名の台頭に直結します。

  • ← 6-3 モンゴル襲来と幕府の衰退:御家人の窮乏と惣領制の解体が、南北朝動乱の長期化の背景
  • ← 6-4 鎌倉文化:鎌倉新仏教が室町時代にさらに広まり、一向一揆の基盤に
  • 守護の権限拡大 → 守護大名:半済令などで守護が領国支配を確立する過程が、のちの戦国大名の前史
  • 日明貿易 → 7-2 幕府の衰退:貿易の実権が守護に移ることで幕府の統制力が弱まる

9まとめ

  • 建武の新政は武士社会の慣習を無視したため約2年で崩壊
  • 1336年、足利尊氏が建武式目を制定し、南北朝の対立が始まる
  • 60年の動乱の背景には惣領制の解体と武士団の分裂がある
  • 3代将軍足利義満1392年に南北朝を合体。土岐・山名・大内氏を討伐して全盛期を築く
  • 幕府機構は管領(三管領)・侍所(四職)・鎌倉府で構成
  • 日明貿易は朝貢形式で勘合を使用。日本側の利益が大きかった
  • 琉球王国は中継貿易で繁栄。蝦夷ヶ島では和人とアイヌが交易・対立
この章を100字で要約すると

建武の新政の崩壊後、足利尊氏が幕府を開き南北朝の動乱が約60年続いた。3代義満が南北朝を合体させ有力守護を抑えて全盛期を築き、管領・侍所を中心とする幕府機構を整備。日明貿易(勘合貿易)で東アジアとの交流も活発化した。

10穴埋め・一問一答

Q1. 1333年、鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が始めた政治を何というか。

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建武の新政。摂政・関白をおかず天皇中心の政治を目指したが、武士の不満を招き約2年で崩壊。

Q2. 1336年、足利尊氏が幕府を開く方針を示した法令を何というか。

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建武式目。幕府再興の方針を明らかにした当面の政治方針。

Q3. 南北朝の合体を実現した3代将軍は誰か。また何年に合体したか。

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足利義満1392(明徳3)年に合体。約60年の南北朝の動乱に終止符を打った。

Q4. 室町幕府で将軍を補佐する中心的な職を何といい、どの3氏が交代で就任したか。

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管領(かんれい)。細川・斯波・畠山の3氏(三管領)が交代で就任。

Q5. 日明貿易で遣明船が持参した証票を何というか。

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勘合(かんごう)。倭寇と正式な貿易船を区別するための証票。日明貿易を勘合貿易ともいう。

Q6. 守護が一国内の荘園や公領の年貢の半分を徴発する権限を認めた法令を何というか。

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半済令(はんぜいれい)。軍費調達のため守護の権限を拡大したもので、守護大名化の一因。

Q7. 1429年に三山を統一して琉球王国をつくった人物は誰か。

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尚巴志(しょうはし)。中山王として三山(山北・中山・山南)を統一した。

11アウトプット演習

問1 A 基礎 原因

建武の新政が失敗した理由を、武士社会の慣習との関わりから説明せよ。

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解答

後醍醐天皇の新政は、御成敗式目以来の武士社会に築かれていた慣習を無視し、すべての土地所有権の確認に天皇の綸旨を必要とするなど天皇への権限集中をはかったため、多くの武士の不満と抵抗を引きおこし、わずか2年余りで崩壊した。

問2 A 基礎 列挙

室町幕府の管領と侍所について、それぞれの役割と就任する氏族を答えよ。

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解答

管領:将軍を補佐する最高職で、侍所・問注所・政所などの中央諸機関を統轄し、諸国の守護に将軍の命令を伝達した。細川・斯波・畠山の3氏(三管領)が交代で就任。
侍所:京都内外の警備や刑事裁判を担当。赤松・一色・山名・京極の4氏(四職)が長官(所司)に就任。

問3 B 標準 比較

室町幕府の経済的基盤は鎌倉幕府と比較してどのような違いがあったか。その理由とともに説明せよ。

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解答

鎌倉幕府が関東の御家人からの奉公を基盤とし、御料所からの収入が中心であったのに対し、室町幕府は京都に本拠をおいたため、土倉役・酒屋役などの商業課税、関銭・津料の徴収、段銭・棟別銭の賦課、日明貿易の利益など、多様な財源に依存していた。これは幕府が商工業の中心地である京都に所在したこと、また守護の分担金や御料所だけでは財政をまかなえなかったことによる。