13世紀、ユーラシア大陸に大帝国を築いたモンゴルのフビライは、日本にも朝貢を要求しました。
文永の役・弘安の役の2度にわたる元軍の襲来に対し、幕府は御家人を動員して防戦しますが、十分な恩賞を与えることができず、御家人の不満が高まります。
経済の発展とともに社会は大きく変動し、得宗専制のもとで幕府の支配は動揺していきます。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 1268年 | フビライが日本に朝貢を求める国書を送る |
| 1274年 | 文永の役(第1回モンゴル襲来) |
| 1281年 | 弘安の役(第2回モンゴル襲来) |
| 1285年 | 霜月騒動 → 得宗専制の確立 |
| 1297年 | 永仁の徳政令 |
| 1324年 | 正中の変(後醍醐天皇の討幕計画が発覚) |
| 1333年 | 鎌倉幕府の滅亡 |
13世紀初め、チンギス=ハンがモンゴル高原の諸部族を統合し、中央アジアから南ロシアまでを征服して広大な帝国を建設しました。その孫フビライ(クビライ)は都を大都(北京)に移し、国号を元と定めました。元は高麗を服属させると、日本にも朝貢を要求してきました。
1268(文永5)年、フビライは日本に朝貢を求める国書を送りましたが、8代執権北条時宗はこれを拒否しました。1274(文永11)年、元は高麗の軍勢もあわせ約3万の兵で対馬・壱岐を攻め、九州北部の博多湾に上陸しました。元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火薬兵器に対し、一騎打ちを主とする幕府軍は苦戦しましたが、元軍も損害が大きく退きました(文永の役)。
幕府は再度の襲来に備えて、博多湾沿岸などに石築地(防塁)を構築させ、九州の御家人に異国警固番役を課しました。1281(弘安4)年、元は約14万の大軍をもって再び九州北部にせまりましたが、防塁によって上陸をはばまれているあいだに暴風雨がおこり、元軍は大損害を受けて敗退しました(弘安の役)。
文永の役(1274年):元・高麗軍約3万。集団戦法・てつはうに幕府軍苦戦。元軍が自主的に退却
弘安の役(1281年):元軍約14万。石築地で上陸阻止。暴風雨で元軍壊滅
※2度の襲来をモンゴル襲来(蒙古襲来・元寇)という
※高麗人や旧南宋の人々の抵抗も元の遠征失敗の要因
モンゴル襲来の前後から、畿内や西国では麦を裏作とする二毛作が普及していきました。肥料には山野の草や木(刈敷・草木灰)が使われ、鉄製農具や牛馬を利用した農耕も広がりました。
荘園・公領の中心地や交通の要地、寺社の門前などには定期市が開かれ、月に3回開かれる三斎市も珍しくなくなりました。売買の手段として中国から輸入された宋銭が広く流通し、荘園の一部では年貢の銭納もおこなわれました。遠隔地間の取引には為替が使われ、金融業者の借上も現れました。
京都・奈良・鎌倉などには同業者の団体である座が結成され、大寺社に属する神人や天皇家に属する供御人が販売や製造の特権を認められて商工業に従事しました。陸上交通の要地には宿が設けられ、各地の湊では問(問丸)が商品の委託販売や運送をおこないました。
【農業】二毛作の普及、刈敷・草木灰による施肥、鉄製農具・牛馬の利用
【商業】三斎市(月3回の定期市)、宋銭の流通、年貢の銭納
【金融】為替の利用、借上(金融業者)の登場
【流通】問(問丸)による委託販売・運送、座の結成
モンゴル襲来を機に幕府の支配権は全国的に強化されましたが、北条氏の中でも宗家の家督を継ぐ得宗の勢力が強大となりました。1285(弘安8)年、得宗の家臣である御内人の中心人物平頼綱が有力御家人の安達泰盛を滅ぼしました(霜月騒動)。
こうして得宗の絶大な権力のもとで、御内人や北条氏一門が幕政を主導するようになりました。これを得宗専制政治と呼びます。全国の守護の半分以上は北条氏一門が占め、各地の地頭職の多くも北条氏の手に帰しました。
モンゴル襲来は御家人たちに多大な犠牲を強いましたが、幕府は十分な恩賞を与えることができず、御家人の信頼を失いました。また、分割相続の繰り返しによって所領が細分化され、売買や質入れで所領を失う御家人も少なくありませんでした。
幕府は1297(永仁5)年に永仁の徳政令を発布し、質入れや売買を禁止し、それまでに質入れ・売却した御家人領を無償で取り戻させ、金銭の訴訟を受けつけないこととしました。しかし御家人が所領を手放す動きをとめることはできませんでした。
1297年に発布。内容は以下の3点:
①御家人の所領の質入れ・売買を禁止
②すでに質入れ・売却した御家人領を無償で取り戻させる
③御家人が関係する金銭の訴訟を受けつけない
※所領を手放す根本原因を解消できず、効果は限定的だった
畿内やその周辺では、地頭や非御家人の新興武士たちが武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど、荘園領主に抵抗するようになりました。これらの武士は当時悪党と呼ばれ、その動きはやがて各地に広がっていきました。
朝廷では天皇家が持明院統と大覚寺統にわかれて皇位継承をめぐって争い、幕府はたびたび調停をおこなって両統迭立の方式がとられました。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は討幕を計画しましたが失敗し(正中の変・元弘の変)、隠岐に配流されました。
しかし天皇の呼びかけに応じて楠木正成らが蜂起し、有力御家人の足利高氏(のち尊氏)が六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻めて北条高時以下の北条氏一門を滅ぼし、1333(元弘3)年に鎌倉幕府は滅亡しました。
①得宗専制に対する御家人の不満の増大
②悪党の出現 → 荘園領主への抵抗が各地に拡大
③後醍醐天皇の討幕計画(正中の変・元弘の変)
④足利高氏が六波羅探題を攻略、新田義貞が鎌倉を攻略
⑤1333年:鎌倉幕府滅亡
モンゴル襲来は幕府の支配権を全国的に強化する一方で、恩賞不足と御家人の困窮をもたらしました。経済の発展と社会変動のなかで得宗専制と悪党の出現が進み、後醍醐天皇の討幕運動と結びついて幕府は滅亡します。
フビライの元が2度にわたり日本を襲来したが、幕府は防衛に成功した。しかし恩賞不足と分割相続で御家人が困窮し、得宗専制への不満が増大。悪党の出現や後醍醐天皇の討幕運動を経て、1333年に鎌倉幕府は滅亡した。
Q1. 1274年の元軍の最初の襲来を何というか。
Q2. 弘安の役に備えて博多湾沿岸に構築された石造の防壁を何というか。
Q3. 北条氏の宗家の当主を何と呼ぶか。
Q4. 1297年に幕府が御家人救済のために出した法令を何というか。
Q5. 荘園領主に武力で抵抗し、年貢の納入を拒否した新興武士たちは何と呼ばれたか。
Q6. 鎌倉幕府が滅亡した年と、鎌倉を攻略した人物は誰か。
文永の役と弘安の役について、元軍の規模・戦闘の特徴・結果を比較して述べよ。
【文永の役】1274年。元・高麗連合軍約3万。元軍の集団戦法と「てつはう」に幕府軍が苦戦したが、元軍も損害が大きく退却した。
【弘安の役】1281年。元軍約14万の大軍。幕府が博多湾沿いに構築した石築地(防塁)で上陸を阻止。暴風雨が元軍を襲い壊滅的打撃を受けて敗退した。
モンゴル襲来が鎌倉幕府に与えた影響を、幕府の支配権の変化と御家人の困窮という2つの観点から説明せよ。
【支配権の変化】幕府は御家人以外の荘園・公領の武士をも動員する権利を朝廷から獲得し、西国一帯に支配を強めた。九州には鎮西探題を設置して北条氏一門を派遣し、政務・裁判を担当させた。
【御家人の困窮】防衛戦争のため新たな土地を獲得できず、幕府は十分な恩賞を与えられなかった。異国警固番役の負担も重く、分割相続による所領の細分化と合わせて御家人の生活は困窮した。永仁の徳政令で救済をはかったが効果は限定的で、幕府への不信感が高まった。