12世紀半ば、天皇家や摂関家の内部対立が武士の力で解決される時代が訪れます。
保元の乱・平治の乱を経て台頭した平清盛は、太政大臣にのぼり、娘を天皇の后として外戚の地位を得ました。
平氏政権は日宋貿易を推進する一方、貴族的な性格も色濃く残しており、やがて源氏の挙兵によって崩壊していきます。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 12世紀初 | 平正盛が源義親の乱を鎮圧。伊勢平氏が台頭 |
| 1156年 | 保元の乱 ─ 後白河天皇方が崇徳上皇方を破る |
| 1159年 | 平治の乱 ─ 平清盛が源義朝・藤原信頼を破る |
| 1167年 | 平清盛が太政大臣に就任 |
| 1179年 | 清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。平氏主導の政権 |
| 1180年 | 源頼朝が挙兵。治承・寿永の乱の始まり |
源義家のあと、一族の内紛により源氏の勢力がやや衰える中、院と結んで台頭したのが、桓武平氏のうち伊勢・伊賀を地盤とする伊勢平氏です。
平正盛は、出雲で反乱をおこした源義家の子義親を討ち、白河上皇の信任を得ました。正盛の子の平忠盛は、瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得て、院近臣の地位を確立しました。忠盛は殿上人となって貴族の仲間入りを果たし、受領を歴任して経済力をたくわえました。
平正盛:源義親の乱を鎮圧 → 白河上皇の信任を得る
平忠盛:瀬戸内海の海賊平定 → 鳥羽上皇の院近臣に
※忠盛は殿上人となり貴族社会に進出 → 武士と貴族の両面で勢力拡大
1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去すると、かねて皇位継承をめぐり鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇が動きました。崇徳上皇は、摂関家の家督をめぐって兄の藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結び、源為義・平忠正らの武士を集めました。
これに対して後白河天皇は、忠通や院近臣の藤原通憲(信西)の進言により、平清盛や為義の子源義朝らの武士を動員し、崇徳上皇方を攻撃して破りました。崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は死亡し、為義らは処刑されました(保元の乱)。
京都を舞台にした合戦で政治の行方が武士の力で決定づけられたのは、保元の乱が初めてのことでした。
後白河天皇方:藤原忠通・信西(通憲)・平清盛・源義朝
崇徳上皇方:藤原頼長・源為義・平忠正
結果:後白河天皇方が勝利。崇徳上皇は讃岐に流罪
意義:京都での合戦+武士の力で政治が決着 → 約350年ぶりの死刑執行
保元の乱のあと、院政を始めた後白河上皇の近臣間で対立が生まれました。1159(平治元)年、清盛と結ぶ通憲(信西)に反感をいだいた院近臣の藤原信頼が、源義朝と結んで兵をあげ、通憲を自殺に追い込みました。
しかし、武力にまさる平清盛によって信頼や義朝は滅ぼされ、義朝の子の頼朝は伊豆に流されました(平治の乱)。
この2つの乱に動員された武士はわずかでしたが、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まりました。
清盛方:平清盛(信西と協力関係)
反清盛方:藤原信頼+源義朝 → 挙兵するも敗北
結果:信頼は殺害、義朝は滅亡、源頼朝は伊豆に流罪
影響:平清盛が武家の棟梁として権力を確立
平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進を遂げ、蓮華王院(三十三間堂)を造営するなどの奉仕をした結果、1167(仁安2)年には太政大臣となりました。清盛の子平重盛ら一族もみな高位高官にのぼり、その威勢は並ぶものがなくなりました。
清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、徳子の子の安徳天皇を即位させて外戚として威勢をふるいました。こうした平氏政権のあり方は摂関政治に似ており、武士でありながら貴族的な性格が強い政権でした。
平氏の経済的基盤は、全盛期には日本全国の約半分にのぼる知行国と、500余りの荘園でした。清盛は各地の武士の一部を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、瀬戸内海から九州までの西国一帯の武士団を組織することに成功しました。
一方で、平氏は一門を官職につけて支配の拡大をはかったため、排除された貴族や武家から強い反発を受けました。1179(治承3)年、後白河法皇を中心とする反平氏の動きが表面化すると、清盛は法皇を鳥羽殿に閉じこめ、関白以下多くの貴族の官職をうばうという強硬手段に出ました。
平氏政権は武力を基盤としながらも貴族的な性格が強く、全国の武士を広く組織する体制をつくれなかったことが、源氏の挙兵による崩壊の一因となりました。
①1167年:清盛が太政大臣に就任
②娘の徳子を高倉天皇の中宮に → 外戚として権力行使(摂関政治に類似)
③約半分の知行国+500余の荘園が経済基盤
④武士を地頭に任命(地頭制度の先駆け)
⑤拠点は京都の六波羅 → 六波羅政権とも呼ばれる
11世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、12世紀に宋が北方の女真人の建てた金に圧迫されて南宋となってからは、さかんに貿易がおこなわれました。
清盛は摂津の大輪田泊(神戸市)を修築して瀬戸内海航路の安全をはかり、宋の商人の畿内への招来にもつとめて日宋貿易を推進しました。
日本からは金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器などを輸出し、宋からは宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍などを輸入しました。宋銭の大量輸入は日本の貨幣経済の発展に大きな影響を与え、貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤となりました。
拠点:摂津の大輪田泊(現・神戸港)を修築
輸出品:金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器
輸入品:宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍
※宋銭の大量流入 → 日本の貨幣経済に大きな影響
※貿易の利潤が平氏政権の経済的基盤に
貴族文化は院政期に入ると、新たに台頭してきた武士や庶民とその背後にある地方文化を取り入れて、新鮮で豊かなものを生み出しました。後白河上皇は民間の流行歌謡である今様を学んで『梁塵秘抄』を編み、貴族と庶民の文化の深い関わりを示しました。田楽や猿楽などの芸能も、庶民のみならず貴族のあいだにも流行しました。
この時期には『大鏡』や『今鏡』などの歴史物語が書かれました。転換期に立って過去の歴史を振り返ろうとする貴族の思想の表れです。また、武士や庶民も登場する新しい文学として、インド・中国・日本の説話を集めた『今昔物語集』や、地方での合戦に取材した『将門記』・『陸奥話記』などの軍記物語が生まれました。
絵と詞書を織りまぜて時間の進行を表現する絵巻物がこの時代に大和絵の手法で発展しました。代表的な作品には、『源氏物語絵巻』・『伴大納言絵巻』・『信貴山縁起絵巻』・『鳥獣人物戯画』があります。
建築では、白河天皇が建立した法勝寺など「勝」のつく六勝寺が造営されました。平清盛が厳島神社に奉納した『平家納経』には、当時の美術・工芸の粋を集めた装飾がほどこされています。
歌謡:後白河上皇が今様を学び『梁塵秘抄』を編纂
説話集:『今昔物語集』 / 軍記物:『将門記』・『陸奥話記』
歴史物語:『大鏡』・『今鏡』
絵巻物:『源氏物語絵巻』・『伴大納言絵巻』・『信貴山縁起絵巻』・『鳥獣人物戯画』
建築:六勝寺(法勝寺など)、蓮華王院(三十三間堂)
工芸:『平家納経』(厳島神社に奉納)
保元・平治の乱は、院政期に蓄積された政治的対立が武士の力で解決された画期的事件であり、ここから武家政権の時代が始まります。平氏政権の貴族的な性格とその限界は、次に登場する鎌倉幕府との比較で重要なポイントとなります。
保元・平治の乱で貴族社会の争いが武士の力で決着し、平清盛が太政大臣となり外戚として権力を握った。平氏政権は知行国・荘園と日宋貿易を経済基盤としたが、摂関政治に似た貴族的性格ゆえに反発を招き、やがて源氏の挙兵を呼ぶことになった。
Q1. 1156年におきた、後白河天皇方と崇徳上皇方の戦いを何というか。
Q2. 1159年の平治の乱で敗れ、伊豆に流された源義朝の子は誰か。
Q3. 平清盛が1167年に就任した、武士として初の最高官職は何か。
Q4. 清盛が日宋貿易のために修築した摂津の港を何というか。
Q5. 後白河上皇が民間の流行歌謡(今様)を集めて編んだ歌謡集を何というか。
Q6. 平清盛が後白河上皇のために造営した、千体の千手観音像を安置する仏堂を何というか。
Q7. 平氏政権の性格について、摂関政治との類似点は何か。
保元の乱の対立構図を、天皇家・摂関家・武士のそれぞれについて整理せよ。
天皇家:後白河天皇(弟)vs 崇徳上皇(兄)。皇位継承をめぐる対立。
摂関家:藤原忠通(兄、関白)vs 藤原頼長(弟、左大臣)。摂関家の家督をめぐる対立。
武士:後白河天皇方に平清盛・源義朝、崇徳上皇方に源為義・平忠正がつき、それぞれ兄弟・親子が敵味方に分かれた。
保元の乱は天皇家・摂関家という朝廷の二大勢力がともに内部分裂し、その争いの帰趨が武士の軍事力で決定された点に画期性があります。源為義と子の義朝が敵味方に分かれたことも象徴的です。
平氏政権の経済的基盤を3つ述べよ。
①全国の約半分にのぼる知行国の収益。
②500余りの荘園からの収入。
③大輪田泊を拠点とした日宋貿易の利潤。宋銭・陶磁器・香料などを輸入し、金・水銀・木材などを輸出した。
平氏政権と摂関政治の類似点を指摘したうえで、平氏政権が反発を受けた理由を説明せよ。
類似点:平清盛は娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れ、その子の安徳天皇を即位させて外戚として威勢をふるった点が、藤原氏の摂関政治と同じ手法である。
反発の理由:平氏は一門で高位高官を独占し、約半分の知行国を掌握して他の貴族や武家を排除した。さらに後白河法皇を幽閉するなどの強硬手段に出たため、排除された貴族や東国の武士から強い反発を受け、源頼朝の挙兵をまねくことになった。
平氏政権は武力を基盤としながらも、従来の貴族政治の枠組みの中で権力を行使しようとしました。この「武士でありながら貴族的」という性格が、鎌倉幕府との重要な違いです。鎌倉幕府は御恩と奉公に基づく主従関係で武士を組織し、独自の統治機構をつくった点で、より武家的な政権となりました。