11世紀後半、摂関家を外戚としない後三条天皇が即位し、延久の荘園整理令を発して荘園と公領の区別を明確にしました。
その子の白河天皇は退位後も上皇として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握ります。
こうして始まった院政は、法や慣例にとらわれない専制的な政治として100年余り続き、中世社会の幕を開けることになります。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 1051〜62年 | 前九年合戦 ─ 源頼義・義家が安倍氏を滅ぼす |
| 1083〜87年 | 後三年合戦 ─ 源義家が清原氏の内紛に介入 |
| 1068年 | 後三条天皇が即位 |
| 1069年 | 延久の荘園整理令。記録荘園券契所を設置 |
| 1086年 | 白河天皇が退位し上皇に。院政の開始 |
| 1129年 | 白河法皇の死去。鳥羽上皇の院政が本格化 |
11世紀後半、朝廷は政治の転換期を迎えていました。天皇家や摂関家・大寺社は、諸国からの税収が不安定になるなか荘園の拡大をはかりましたが、荘園の増加は国司が支配する公領(国衙領)を圧迫し、対立が深まっていました。
1068(治暦4)年、後三条天皇が即位しました。後三条天皇は宇多天皇以来約170年ぶりの、藤原氏を外戚としない天皇でした。そのため摂関家の影響を受けず、新たな政治を進めることができました。
後三条天皇は荘園の増加が公領を圧迫して朝廷の税収の減少をまねいていると判断し、1069(延久元)年に延久の荘園整理令を発しました。
従来の荘園整理令は実施を国司にゆだねていたため不徹底でしたが、後三条天皇は中央に記録荘園券契所(記録所)を設け、荘園の所有者から提出された証拠書類(券契)と国司の報告をあわせて審査し、基準にあわない荘園を停止しました。摂関家の荘園も例外とせず、この整理令はかなりの成果を上げました。
①1069年、後三条天皇が発布
②中央に記録荘園券契所(記録所)を設置 → 国司任せでなく中央で審査
③摂関家の荘園も例外なく停止対象 → 従来の整理令との違い
④荘園と公領の区別が明確化 → 荘園公領制の基礎に
荘園整理によって、貴族や寺社が支配する荘園と公領との区別が明確になりました。貴族や寺社は認められた荘園の整備を進め、国司は公領を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、支配下にある豪族や開発領主を郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせました。
こうして、かつての律令制度のもとで国・郡・里などの上下の区分で構成されていた体制は、荘園と公領(郡・郷・保)が並立する荘園公領制へと変化していきました。
従来の荘園整理令は国司に実施をゆだねていたため不徹底でしたが、後三条天皇は中央で審査する仕組みをつくり、摂関家すら例外としなかった点が決定的な違いです。
11世紀半ば、陸奥北部では安倍氏が国司としばしば争っていました。源頼義が子の義家とともに東国の武士を率いて安倍氏と戦いましたが、苦戦を強いられました。最終的に出羽の豪族清原氏の助けを得て、安倍氏を滅ぼしました(前九年合戦、1051〜62年)。
前九年合戦の後、陸奥・出羽で大きな勢力を得た清原氏一族に内紛がおこりました。陸奥守であった源義家がこれに介入し、藤原(清原)清衡を助けて内紛を鎮圧しました(後三年合戦、1083〜87年)。
ただし、義家の行為は朝廷から「私の合戦」とみなされ、恩賞は与えられませんでした。義家は自費で従軍した武士に恩賞を与えたため、東国の武士との主従関係がいっそう強まり、源氏は武家の棟梁と仰がれるようになりました。
前九年合戦(1051〜62年):源頼義・義家が清原氏の援助で安倍氏を滅ぼす
後三年合戦(1083〜87年):源義家が清原氏の内紛に介入 → 藤原清衡を助ける
※義家の行為は「私戦」とされ恩賞なし → 自費で恩賞を分配 → 源氏が武家の棟梁に
※戦後、奥州藤原氏(清衡・基衡・秀衡の3代100年)が平泉を拠点に繁栄
武士の力に目をつけた白河天皇は、成長の著しい武士を登用し、父の後三条天皇にならって親政をおこないました。1086(応徳3)年に幼少の堀河天皇に位をゆずると、みずから上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握りました。
院政は、自分の子孫に皇位を継承させようとしたところから始まりました。院庁からくだされる文書である院庁下文や、院の命令を伝える院宣がしだいに国政一般に効力をもつようになりました。
白河上皇は人事権を握って、荘園整理の断行を歓迎する国司(受領)を支持勢力に取り込みました。さらに、院の御所に北面の武士を組織し、源平の武士を側近にするなど院の権力を強化しました。
堀河天皇の死後には、幼い鳥羽天皇を位につけて本格的な院政を始めました。院は法や慣例にこだわらずに政治の実権を専制的に行使するようになり、院政は白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年余りも続きました。
摂関家は院と結びつくことで勢力を盛り返そうとしましたが、権力の中心は天皇家の家長たる上皇へと移りました。
①1086年、白河天皇が退位し上皇として院庁を開く
②院庁下文・院宣が国政に効力をもつ → 太政官を通じた通常の政治手続きを超える
③北面の武士を組織 → 院の直属の軍事力
④白河・鳥羽・後白河の3上皇が約100年にわたり院政を展開
⑤摂関政治との違い:外戚関係に依存せず、天皇家の家長として権力を行使
上皇の周囲には、富裕な受領や后妃・乳母の一族など院近臣と呼ばれる一団が形成され、上皇から荘園や収益の豊かな国を与えられました。とくに鳥羽上皇の時代には、院の周辺に荘園の寄進が集中し、不輸・不入の権をもつ荘園が一般化しました。
また、高位の貴族が知行国主として一国の支配権を与えられ、その国からの収益を取得する知行国の制度や、上皇自身が国の収益を握る院分国の制度が広まり、公領は上皇や知行国主の私領のようになっていきました。
上皇は近親の女性を女院として大量の荘園を与え、寺院にも多くの荘園を寄進しました。鳥羽上皇が皇女の八条院に伝えた八条院領は約100か所、後白河上皇が長講堂に寄進した長講堂領は約90か所にのぼり、それぞれ鎌倉時代末期には大覚寺統・持明院統に継承されました。
①院近臣:受領・后妃の一族らが上皇の側近に
②知行国・院分国:公領の私領化が進む
③八条院領(鳥羽上皇→八条院、約100か所)→ 大覚寺統へ
④長講堂領(後白河上皇→長講堂、約90か所)→ 持明院統へ
⑤成功・売位売官の風潮 → 費用調達のため行政機構が変質
大寺社は多くの荘園を所有し、武装した僧侶を僧兵として組織しました。国司やほかの荘園領主と争い、神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴をおこないました。
なかでも興福寺と延暦寺の勢力は強大で、南都・北嶺と呼ばれました。興福寺は春日社の神木を、延暦寺は日吉社の神輿をかついで入京し、朝廷に要求をのませようとしました。神仏の威を恐れた朝廷は大寺院の力に抗することができず、武士を用いて警護や鎮圧に当たらせたため、武士の中央政界への進出をまねくことになりました。
興福寺(南都):春日社の神木を先頭に強訴
延暦寺(北嶺):日吉社の神輿をかついで強訴
※朝廷は神仏の威を恐れ対処困難 → 武士の登用が進む
※法によらず実力で争う院政期社会の特色を象徴
後三年合戦の後、藤原清衡が平泉(岩手県)を根拠地として支配を奥羽全域に広げました。奥州藤原氏は清衡・基衡・秀衡の3代100年にわたって、金や馬などの産物の力で京都文化を移入し、北方の地との交易によって独自の文化を育てて繁栄を誇りました。中尊寺金色堂や毛越寺などの豪華な寺院が建立されました。
院政の始まりは、摂関政治の行き詰まりと荘園制の矛盾を背景に、天皇家の家長である上皇が新たな権力の中心となった政治変動です。荘園公領制の成立は中世的な土地支配の出発点であり、武士の成長は次節の保元・平治の乱へと直結します。
後三条天皇は延久の荘園整理令で記録所を設け荘園と公領の区別を明確にした。白河天皇は退位後に院庁を開き院政を始め、北面の武士や院近臣を重用して法や慣例にとらわれない専制的政治を展開した。前九年・後三年合戦を経て源氏が武家の棟梁に成長した。
Q1. 1069年、後三条天皇が出した荘園整理令を何というか。
Q2. 1086年に退位して院政を始めた天皇は誰か。
Q3. 院の御所に組織された、上皇直属の武力を何というか。
Q4. 前九年合戦で安倍氏を滅ぼした源氏の武将の父子の名を答えよ。
Q5. 後三年合戦ののち、平泉を拠点に繁栄した一族を何というか。
Q6. 興福寺と延暦寺の僧兵が朝廷に対して要求を通そうとした行為を何というか。
Q7. 院政を行った3人の上皇を、時代順に答えよ。
延久の荘園整理令が、それ以前の荘園整理令と比べて成果を上げた理由を説明せよ。
従来の荘園整理令は実施を国司にゆだねていたため不徹底であったが、後三条天皇は中央に記録荘園券契所を設けて証拠書類を直接審査する仕組みをつくり、摂関家の荘園も例外とせずに基準にあわないものを停止したため、大きな成果を上げた。
摂関政治と院政の類似点と相違点を述べよ。
類似点:ともに天皇にかわって実権を握る政治形態であり、天皇との親族関係を権力の基盤とした。
相違点:摂関政治は天皇の外戚(母方の祖父・おじ)であることが前提で、摂政・関白として太政官を通じて政務をおこなった。一方、院政は天皇家の家長である上皇が、院庁下文や院宣によって法や慣例にとらわれず専制的に政治を行使した点が異なる。
摂関政治は外戚関係という条件があるため、その関係が成立しなければ権力を行使できません。後三条天皇のように藤原氏を外戚としない天皇が即位すると、摂関家の権力基盤は弱まります。院政は天皇家の家長として権力を行使するため、外戚関係に依存しない点が本質的な違いです。
院政期に武士が中央政界に進出するようになった背景を、大寺社の動向にもふれながら説明せよ。
院政期には大寺社が僧兵を組織し、神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴をおこなった。朝廷は神仏の威を恐れて大寺社の要求に抗しがたかったため、武士を用いて警護や鎮圧に当たらせた。また、白河上皇は北面の武士を組織するなど武士を側近として登用した。こうして僧兵への対処と上皇の権力強化の両面から、武士の中央政界への進出が進んだ。