第18章 激動する世界と日本

経済大国への道
─ ドル危機・石油危機から安定成長、そしてバブルへ

ニクソン・ショックと石油危機は高度経済成長に終止符を打ちましたが、日本は省エネ型産業への転換で安定成長を維持しました。
世界のGNPに占める比重は約10%に達し、日本は「経済大国」と呼ばれるようになりました。
しかし1980年代後半のバブル経済は崩壊し、日本経済は深刻な不況に直面します。

ニクソン・ショックとドル危機

1960年代後半、ベトナム戦争の軍事支出や日本・西ドイツの対米輸出急増などでアメリカの国際収支が悪化し、ドル危機が発生しました。1971(昭和46)年8月、ニクソン大統領は金とドルの交換停止・輸入課徴金などを発表し(ニクソン・ショック)、大幅な為替レートの切上げを要求しました。

同年末のスミソニアン会議で1ドル=308円への切上げが決まりましたが(スミソニアン体制)、1973年にはドル不安が再燃し、日本や西ヨーロッパ諸国は変動相場制に移行しました。戦後の国際通貨体制(ブレトン・ウッズ体制)は根底からゆらぎました。

一方、ニクソン大統領は1972年に中国を訪問してアメリカと中国の敵対関係を改善し、1979年に米中国交正常化が実現しました。田中角栄内閣は1972年9月に訪中して日中共同声明を発表し、日中国交正常化を実現しました。

石油危機と高度経済成長の終焉

1973(昭和48)年10月、第4次中東戦争が勃発すると、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエル寄りの欧米や日本への石油輸出を制限し、原油価格を約4倍に引き上げました(第1次石油危機)。当時、日本の原油輸入の大半を中東に依存していたため、打撃は大きく、狂乱物価と呼ばれる激しいインフレが発生しました。

1974(昭和49)年、日本経済は戦後初のマイナス成長となり、高度経済成長は終焉を迎えました。不況とインフレが併存するスタグフレーションに直面しましたが、政府は賃上げを生産性の伸び以内にとどめることに成功し、経済の立て直しをはかりました。

田中内閣は「日本列島改造論」による公共投資の拡大で地価高騰を招き、金脈問題で退陣しました。後継の三木武夫内閣のもとでロッキード事件(1976年)が発覚し、田中元首相が逮捕されました。1978年には福田赳夫内閣のもとで日中平和友好条約が締結されました。

ここが問われる: 高度成長の終焉をもたらした要因 因果関係

ニクソン・ショック:固定相場制の崩壊 → 円高で輸出に打撃
第1次石油危機:安価な原油供給という成長の基本条件が失われた
列島改造ブーム:土地投機とインフレの加速
結果:1974年に戦後初のマイナス成長 → 高度経済成長の終焉

経済大国の実現と貿易摩擦

第1次石油危機以降、日本は省エネルギー型の産業・製品の開発を進め、5%前後の経済成長率を維持しました。1979年の第2次石油危機(イラン・イスラーム革命)も欧米諸国と比べて相対的に高い成長率で乗り切りました。

企業はコンピュータやロボットを活用して工場やオフィスの自動化を進め、鉄鋼・石油化学から省エネ型の自動車・電気機械・ハイテク産業へと産業構造が転換しました。日本の貿易黒字は大幅に拡大し、欧米諸国との貿易摩擦が深刻化しました。

世界のGNPに占める日本の比重は1980年に約10%に達し、日本は「経済大国」となりました。開発途上国に対する政府開発援助(ODA)の供与額も世界最大規模となりました。

行財政改革とバブル経済

1982年に成立した中曽根康弘内閣は、新自由主義の風潮のもとで行財政改革を推進し、電電公社(現NTT)・専売公社(現JT)・国鉄(現JR)の民営化を断行しました。労働組合も再編され、1989年に総評が解散して連合(日本労働組合総連合会)が発足しました。竹下登内閣のもとで消費税(税率3%)が1989年度から実施されました。

1985年のプラザ合意でドル高是正が合意されると、急激な円高が進行しました。政府は低金利政策で景気を刺激しましたが、余った資金が不動産や株式に流入し、地価・株価が異常に高騰するバブル経済が発生しました。

1990年代に入ると地価と株価は急落し(資産デフレ)、バブル経済は崩壊しました。日本経済は深刻な不況に突入することになります。

バブル経済が発生し崩壊したのか
プラザ合意後の急激な円高で輸出産業が打撃を受けた
政府は超低金利政策で景気を刺激した
余った資金が不動産・株式に流入し、地価・株価が異常に高騰した
1990年代に入ると地価と株価が急激に下落しはじめた(バブル崩壊)

この記事のつながり

ニクソン・ショックと石油危機で高度成長は終わりましたが、日本は省エネ型産業への転換で安定成長を維持し、経済大国となりました。しかしバブル経済の崩壊は、長期不況の始まりを告げます。

  • ← 17-2 経済復興から高度経済成長へ:高度成長を支えた安価な石油と固定相場制が失われた
  • ニクソン・ショック → 変動相場制:1ドル=360円の固定相場が崩壊
  • 石油危機 → 産業構造の転換:重厚長大型から軽薄短小型・ハイテク産業へ
  • プラザ合意 → バブル経済:円高対策の低金利が資産バブルを発生させた
  • → 18-2:冷戦の終結とバブル崩壊後の日本社会へ

まとめ

  • ニクソン・ショックで固定相場制が崩壊し、変動相場制に移行した
  • 田中内閣が日中国交正常化を実現した(1972年)
  • 第1次石油危機で高度経済成長が終焉し、1974年にマイナス成長となった
  • 日本は省エネルギー型産業へ転換し、「経済大国」となった
  • 中曽根内閣が三公社の民営化を断行し、消費税が導入された
  • プラザ合意後の円高対策でバブル経済が発生し、1990年代に崩壊した
この節を100字で要約すると

ニクソン・ショックと石油危機で高度成長は終焉したが、省エネ型産業への転換で安定成長を維持し経済大国となった。三公社民営化や消費税導入が進む中、プラザ合意後のバブル経済が1990年代に崩壊した。

穴埋め・一問一答

Q1. 1971年にニクソン大統領が発表した、金とドルの交換停止を含む政策を何というか。

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ニクソン・ショック。ブレトン・ウッズ体制が根底からゆらぎ、1973年に変動相場制へ移行した。

Q2. 1973年の第4次中東戦争を機に発生した、原油価格の大幅な引上げを何というか。

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第1次石油危機。OAPECが石油戦略を行使し、原油価格を約4倍に引き上げた。

Q3. 中曽根内閣が民営化を断行した三公社とは何か。

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電電公社(現NTT)・専売公社(現JT)・国鉄(現JR)。新自由主義的な行財政改革の一環として断行された。

Q4. 1985年にドル高是正が合意された先進5カ国の会議を何というか。

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プラザ合意。G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で合意された。これ以降、急激な円高が進行した。

Q5. 1978年に福田赳夫内閣のもとで締結された、日本と中国の条約は何か。

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日中平和友好条約。1972年の日中共同声明による国交正常化の後、正式な平和友好条約として締結された。

アウトプット演習

問1 B 発展 論述

1970年代の国際経済の変動が日本経済に与えた影響と、日本がそれにどう対応して「経済大国」となったかを論述せよ。

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解答

1971年のニクソン・ショックで固定相場制が崩壊し、円高が進行して輸出産業に打撃を与えた。1973年の第1次石油危機では安価な原油の安定供給という高度成長の基本条件が失われ、1974年に戦後初のマイナス成長を記録して高度経済成長は終焉した。しかし日本は、企業による省エネルギー技術の開発・生産の合理化・コンピュータやロボットの活用で国際競争力を強化し、産業構造を重厚長大型から省エネ型のハイテク産業へと転換した。その結果、石油危機後も欧米諸国と比べて相対的に高い経済成長率を維持し、GNPの世界シェアは約10%に達して「経済大国」と呼ばれるようになった。一方で貿易黒字の拡大は欧米諸国との貿易摩擦を引き起こした。