第17章 高度成長の時代

55年体制
─ 保守と革新の対立構造から安保闘争へ

独立回復後の日本では、保守勢力の合同と社会党の統一により55年体制が成立しました。
保守一党優位のもとで保革対立という政治構造が約40年にわたって続きました。
日ソ国交回復・国連加盟を経て、安保条約の改定をめぐり国民的な論争が巻き起こりました。

独立回復後の政治再編

1952(昭和27)年4月にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復しました。吉田茂内閣は、労働運動や社会運動をおさえるため破壊活動防止法(破防法)を成立させ、公安調査庁を設置しました。

海上警備隊が新設され、警察予備隊は保安隊に改組されました。アメリカの再軍備要求はさらに強まり、1954(昭和29)年にMSA協定(日米相互防衛援助協定)が締結され、同年7月に陸・海・空の3隊からなる自衛隊が発足しました。

こうした動きに対し、革新勢力は占領期の改革の成果を否定する「逆コース」ととらえ、基地反対闘争や原水爆禁止運動を全国で展開しました。1954年の第五福竜丸事件(ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被曝)を契機に、翌年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれました。

55年体制の成立

公職追放の解除によって鳩山一郎・石橋湛山・岸信介ら有力政治家が政界に復帰し、自由党内でも吉田首相に反発する勢力が増大しました。1954(昭和29)年には、計画造船をめぐる政界への贈賄事件(造船疑獄)が発覚し、吉田内閣の指揮権発動(法務大臣が検事総長の逮捕請求を阻止)が批判を浴びました。鳩山一郎らは離党して日本民主党を結成し、吉田内閣の退陣後に鳩山内閣が成立しました。

一方、左右の社会党は「逆コース」批判の運動が高まる中で党勢を拡大し、再軍備反対の立場を明確にした左派社会党は、総評の支援を受けて議席を増やしていきました。1955(昭和30)年2月の総選挙で、社会党は左右両派あわせて改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保し、10月に両派の統一を実現しました。

保守陣営でも財界の強い要望を背景に、11月に日本民主党と自由党が合流して自由民主党(自民党)を結成しました(保守合同)。こうして保守勢力が約3分の2、革新勢力が約3分の1の議席を占め、保守一党優位のもとでの保革対立という政治体制(55年体制)が成立し、以後約40年にわたって続くことになりました。

ここが問われる: 55年体制の構造 理解

保守(自民党):憲法改正(改憲)・日米安保重視
革新(社会党):憲法擁護(護憲)・非武装中立
自民党が常に3分の2に近い議席、社会党が3分の1前後 → 保守一党優位の体制

日ソ国交回復と国連加盟

鳩山内閣は「自主外交」をうたい、ソ連との国交回復交渉を推進しました。1956(昭和31)年10月、鳩山首相みずからモスクワを訪れ、日ソ共同宣言に調印して国交を回復しました。ただし、北方領土問題については解決に至らず、平和条約の締結は持ち越されました。

日本の国連加盟を拒否していたソ連が支持にまわった結果、同年12月に日本の国連加盟が実現しました。またこの頃、フィリピン・インドネシア・ビルマなど東南アジア諸国との戦時賠償交渉と国交の樹立も進められました。

安保条約の改定と60年安保闘争

鳩山内閣のあとを継いだ石橋湛山内閣は短命に終わり、1957(昭和32)年に岸信介内閣が成立しました。岸内閣は「日米新時代」をとなえ、日米関係をより対等にするため安保条約の改定を目指しました。

1960(昭和35)年1月に新安保条約(日米相互協力及び安全保障条約)が調印されました。アメリカの日本防衛義務が明文化され、在日アメリカ軍の軍事行動についての事前協議制度が定められました。

革新勢力は、新安保条約によってアメリカの世界戦略に組み込まれる危険性が高まるとして反対運動を組織しました。政府・与党が1960年5月に衆議院で条約批准の採決を強行すると、反対運動は「民主主義の擁護」を叫んで一挙に高揚し、巨大なデモが連日国会を取り巻きました(60年安保闘争)。条約は6月に自然成立し、岸内閣は総辞職しました。

安保闘争は国民的な広がりをみせたのか
岸内閣が衆議院で警官隊を導入して採決を強行した
条約の中身だけでなく「民主主義の危機」として問題化した
社会党・共産党・総評だけでなく学生や一般市民もデモに参加
空前の規模の抗議行動が約1カ月続いた

池田内閣と佐藤内閣の時代

1960年7月、岸内閣にかわった池田勇人内閣は「寛容と忍耐」をとなえ、革新勢力との正面衝突を避けながら「所得倍増」をスローガンに経済成長を促進する政策を展開しました。池田内閣は「政経分離」の方針のもと、中華人民共和国との貿易拡大(LT貿易)も進めました。

1964(昭和39)年に成立した佐藤栄作内閣は7年半以上の長期政権となりました。佐藤内閣は1965(昭和40)年に日韓基本条約を結び、韓国との国交を樹立しました。

佐藤内閣は「核兵器をもたず、つくらず、もち込ませず」の非核三原則を掲げ、1968年に小笠原諸島の返還を実現しました。1969年の日米首脳会談(佐藤・ニクソン会談)で「核抜き」の沖縄返還に合意し、1971年に沖縄返還協定が調印されました。翌年の協定発効で沖縄の日本復帰は実現しましたが、広大なアメリカ軍基地は存続することになりました。

ここが問われる: 沖縄返還の経緯 時系列

1968年:小笠原諸島返還
1969年:佐藤・ニクソン会談で「核抜き」沖縄返還に合意
1971年:沖縄返還協定調印
1972年:協定発効、沖縄の日本復帰(ただし米軍基地は存続)

この記事のつながり

独立回復後の日本は、保守と革新の対立構造のもとで政治が展開されました。安保闘争を経て、政治の焦点は経済成長へと移っていきます。

  • ← 16-2 冷戦の開始と講和:サンフランシスコ平和条約で独立を回復し、西側陣営に組み込まれた
  • 自衛隊の発足:警察予備隊 → 保安隊 → 自衛隊(1954年)
  • 55年体制:保守合同と社会党統一による保革対立の政治体制
  • 安保闘争 → 経済重視:池田内閣は政治対立を避け所得倍増を推進
  • → 17-2:高度経済成長の展開と社会の変容へ

まとめ

  • 独立回復後、自衛隊が発足し再軍備が進んだ
  • 1955年に保守合同と社会党統一により55年体制が成立した
  • 日ソ共同宣言で国交回復、日本の国連加盟が実現した
  • 1960年の新安保条約をめぐり60年安保闘争が発生した
  • 池田内閣所得倍増を掲げて経済成長を推進した
  • 佐藤内閣のもとで日韓基本条約が締結され、沖縄返還が実現した
  • 沖縄は日本に復帰したが、アメリカ軍基地は存続した
この節を100字で要約すると

1955年に保守合同と社会党統一で55年体制が成立した。日ソ国交回復・国連加盟を経て、安保改定をめぐる60年安保闘争が起きた。池田内閣は所得倍増を推進し、佐藤内閣のもとで沖縄返還が実現した。

穴埋め・一問一答

Q1. 1955年に日本民主党と自由党が合流して結成された政党は何か。

クリックして答えを表示
自由民主党(自民党)。この保守合同と社会党の統一によって55年体制が成立した。

Q2. 1956年に日本がソ連と調印し、国交を回復した宣言は何か。

クリックして答えを表示
日ソ共同宣言。国交回復の結果、ソ連が日本の国連加盟を支持し、同年12月に国連加盟が実現した。

Q3. 1960年に調印された安保条約の正式名称は何か。

クリックして答えを表示
日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)。アメリカの日本防衛義務が明文化された。

Q4. 池田勇人内閣が掲げた、10年で国民所得を2倍にすることを目指す経済政策のスローガンは何か。

クリックして答えを表示
所得倍増(国民所得倍増計画)。実際の経済成長は計画をはるかに上まわり、1967年に目標を達成した。

Q5. 佐藤栄作内閣が掲げた非核三原則の内容を述べよ。

クリックして答えを表示
核兵器を「もたず、つくらず、もち込ませず」。この原則のもと、1972年の沖縄返還は「核抜き」で実現した。

アウトプット演習

問1 B 発展 論述

55年体制の成立過程と、その政治構造の特徴について、保守・革新双方の動きに着目して論述せよ。

クリックして解答・解説を表示
解答

独立回復後の日本では、再軍備や「逆コース」をめぐり保革の対立が深まった。革新勢力では、再軍備反対を掲げる左派社会党が党勢を拡大し、1955年10月に左右社会党が統一された。改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保した社会党の統一に対抗して、保守陣営でも財界の要望を背景に日本民主党と自由党が合流し、同年11月に自由民主党が結成された。こうして保守勢力が約3分の2、革新勢力が約3分の1の議席を占める55年体制が成立した。保守は改憲・日米安保を、革新は護憲・非武装中立をそれぞれ掲げ、保守一党優位のもとでの保革対立が約40年続いた。