昭和恐慌による社会不安の中、関東軍は満洲事変をおこし、満洲国を建国させました。
五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、大正末以来の政党内閣は崩壊しました。
二・二六事件後、軍部の政治的発言力はいっそう強まり、日本は国際的孤立を深めていきました。
浜口雄幸内閣は幣原喜重郎を外務大臣に起用して協調外交の方針をとり、1930(昭和5)年にロンドン海軍軍縮条約に調印して補助艦の保有量を取り決めました。
しかし、野党の立憲政友会・海軍軍令部・右翼などは、海軍軍令部長の反対をおしきって政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯であると激しく攻撃しました。1930年11月には浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年退陣しました。
統帥権:天皇に直属する陸海軍の最高指揮権で、内閣から独立
干犯問題:軍令部の反対を押し切って内閣が兵力量を決定したことへの攻撃
法解釈上は兵力量の決定は内閣の輔弼事項だったが、政治問題化した
中国で国権回収の民族運動が高まる中、軍や右翼は幣原喜重郎の協調外交を軟弱外交と非難し、「満蒙の危機」を叫んでいました。関東軍は、中国の国権回収運動が満洲におよぶのを武力で阻止し、満洲を日本の勢力下におこうと計画しました。
石原莞爾らを中心として、1931(昭和6)年9月、奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始し、満洲事変が始まりました。第2次若槻礼次郎内閣は不拡大方針を声明しましたが、世論・マスコミは軍の行動を支持しました。
関東軍は全満洲を軍事的制圧下におき、1932(昭和7)年3月、清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として満洲国の建国を宣言させました。国際連盟はリットン調査団を派遣し、1933年2月の臨時総会でリットン報告書にもとづき満洲国不承認を決議しました。日本全権の松岡洋右は総会の場から退場し、3月に日本は正式に国際連盟からの脱退を通告しました。
ロンドン会議の統帥権問題・昭和恐慌・満洲事変をきっかけに、軍人や右翼による急進的な国家改造運動が活発になりました。陸海軍の青年将校や右翼は、日本の行き詰まりの原因が財閥・政党の無能と腐敗にあると考え、軍中心の強力な内閣をつくろうとしました。
1931(昭和6)年には陸軍青年将校のクーデタ未遂事件(三月事件・十月事件)があり、翌1932年には右翼の血盟団員が前大蔵大臣井上準之助・三井合名会社理事長団琢磨を暗殺しました(血盟団事件)。
さらに同年5月15日、海軍青年将校の一団が首相官邸に押し入り、犬養毅首相を射殺しました(五・一五事件)。五・一五事件のあと、元老西園寺公望は穏健派の海軍大将斎藤実を後継首相に推薦し、ここに大正末以来8年間続いた政党内閣は崩壊し、太平洋戦争後まで復活しませんでした。
1930年:浜口首相狙撃事件(統帥権干犯問題が背景)
1931年:三月事件・十月事件(クーデタ未遂)
1932年2〜3月:血盟団事件(井上準之助・団琢磨暗殺)
1932年5月:五・一五事件(犬養毅首相暗殺)→ 政党内閣の崩壊
斎藤実・岡田啓介と2代の海軍穏健派内閣が続く中、軍部の政治的発言力はしだいに強まりました。1935(昭和10)年、貴族院で軍人出身議員が美濃部達吉の憲法学説を反国体的と非難したのをきっかけに、政治問題化しました(天皇機関説事件)。岡田内閣は国体明徴声明を出し、天皇機関説を否認しました。政党政治は民本主義と並ぶ理論的支柱を失いました。
陸軍内部では、直接行動による天皇親政の実現を目指す皇道派と、軍の統制のもとで総力戦体制の樹立を目指す統制派が対立していました。1936(昭和11)年2月26日早朝、皇道派の一部青年将校たちが約1400人の兵を率いて蔵相の高橋是清・内大臣の斎藤実らを殺害し、国政の中枢を4日間にわたって占拠しました(二・二六事件)。
このクーデタは天皇が鎮圧を指示したこともあり、反乱軍として鎮圧されました。事件後、統制派が皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力はいっそう強まりました。
二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣は軍の要求を入れ、軍部大臣現役武官制を復活させました。広田内閣は「国策の基準」で、大陸における日本の地歩を確保する一方、南方へ漸進的に進出する方針を決定しました。
1936(昭和11)年、広田内閣はソ連に対抗するためドイツと日独防共協定を締結し、翌年にはイタリアもこれに参加しました(日独伊三国防共協定)。ワシントン・ロンドン両条約が失効し、日本は国際的に孤立を深めていきました。
中国では関東軍による華北分離工作が進められ、中国国民の抗日救国運動が高まりました。1936年12月の西安事件をきっかけに国民党と共産党は内戦を停止し、抗日への結束を固めました。
恐慌による社会不安を背景に軍部・右翼のテロ事件が相次ぎ、政党内閣は崩壊しました。軍部の政治的発言力が強まる中、日本は国際連盟を脱退して国際的孤立を深め、日中戦争・太平洋戦争への道を歩み始めます。
恐慌下の社会不安を背景に関東軍が満洲事変をおこし、テロ事件で政党内閣は崩壊した。二・二六事件後に軍部の政治的発言力が決定的に強まり、日独防共協定と華北分離工作で国際的孤立を深めた。
Q1. 1931年に関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破して軍事行動を開始した事件を何というか。
Q2. 1932年に犬養毅首相が暗殺された事件を何というか。その歴史的意義は何か。
Q3. 1936年に陸軍の青年将校が決起したクーデタ事件を何というか。事件後の陸軍内部の変化を答えよ。
Q4. 日本が国際連盟を脱退した直接の原因は何か。
Q5. 1935年に美濃部達吉の憲法学説が攻撃された事件を何というか。
1930年代前半に政党政治が崩壊した過程を、統帥権干犯問題・テロ事件・満洲事変に着目して論述せよ。
ロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐり、野党や軍令部が統帥権干犯を主張して浜口内閣を攻撃し、浜口首相は右翼に狙撃された。昭和恐慌による社会不安の中、関東軍は政府の方針を無視して満洲事変をおこし、世論もこれを支持した。満洲事変に呼応して軍人・右翼によるクーデタ未遂事件が続発し、血盟団事件では財界・政界の要人が暗殺された。1932年の五・一五事件で犬養毅首相が海軍青年将校に射殺されると、後継には海軍穏健派の斎藤実が推薦され、大正末以来の政党内閣は崩壊した。こうして恐慌・テロ・軍の独走の三重の圧力のもと、政党政治の基盤は解体されていった。