第15章 恐慌と第二次世界大戦

恐慌の時代
─ 戦後恐慌から昭和恐慌へ、揺れ動く日本経済

第一次世界大戦後、日本経済は慢性的な不況に苦しみ、戦後恐慌・金融恐慌と相次ぐ経済危機に見舞われました。
浜口内閣が断行した金輸出解禁は世界恐慌と重なり、昭和恐慌として深刻な打撃を与えました。
高橋是清の積極財政で恐慌からの脱出が図られましたが、軍事費の膨張が財政を圧迫していきました。

戦後恐慌と慢性的不況

第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の復興が進み、その商品がアジア市場に再登場してくると、大戦景気とは打ってかわり、日本経済は不況に立たされました。1920(大正9)年には、株式市場の暴落を口火に戦後恐慌が発生し、綿糸・生糸の相場は半値以下に暴落しました。

さらに1923(大正12)年には関東大震災で日本経済は大きな打撃を受けました。1920年代の日本経済は、都市化や電力利用の普及に関連して重化学工業の発展がみられたものの、慢性的な不況の状態にありました。

ここが問われる: 1920年代の恐慌の連鎖 時系列

1920年:戦後恐慌(大戦景気の反動)
1923年:関東大震災による経済打撃
1927年:金融恐慌(震災手形の処理問題から発生)
1930年:昭和恐慌(金解禁+世界恐慌の二重打撃)

金融恐慌

関東大震災後、被害にあった企業を救済するため、企業の発行した手形(震災手形)に対して日本銀行が特別融資をしていました。しかし、大口債務者には投機的経営に失敗した企業が含まれており、決済は進みませんでした。

1927(昭和2)年、震災手形の処理法案が議会で審議される中、大蔵大臣の失言により一部の銀行の危機的経営状況が誤った内容で公表され、取付け騒ぎがおこって銀行の休業が相次ぎました(金融恐慌)。大戦中に急成長した総合商社の鈴木商店も破産し、同社に巨額の融資をしていた台湾銀行は経営危機に陥りました。

憲政会の若槻礼次郎内閣は総辞職に追い込まれ、かわって成立した立憲政友会の田中義一内閣は、モラトリアム(支払猶予令)を発して日本銀行から巨額の救済融資をおこない、金融恐慌をようやくしずめました。

金融恐慌がおきたのか
関東大震災後、被災企業の震災手形を日本銀行が特別融資で支えていた
大口債務者に投機的経営の失敗企業が含まれ、決済が進まなかった
議会審議中に大蔵大臣の失言で銀行の経営危機が誤った内容で公表された
取付け騒ぎが連鎖し、中小銀行の休業・倒産が相次いだ

財閥の成長と無産政党

金融恐慌の過程で中小銀行の整理・合併が進み、預金は大銀行に集中し、三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行が支配的な地位を占めました。多くの産業分野で企業集中やカルテル結成が進み、財閥は金融・流通面から産業支配を進め、政党との結びつきも深めました。三菱と憲政会(立憲民政党)、三井と立憲政友会のような財閥と政党のつながりが世間の反感を買いました。

一方、普通選挙法の成立後、労働組合・農民組合を基盤とする社会主義勢力は議会を通じた社会改造を目指すようになり、1926(昭和元)年には合法的な無産政党である労働農民党(労農党)が組織されました。しかし内部対立から社会民衆党・日本労農党に分裂しました。

1928(昭和3)年の普通選挙による最初の総選挙では無産政党勢力が8人の当選者を出しました。田中義一内閣は選挙直後に共産党員の一斉検挙をおこない(三・一五事件)、治安維持法を改正して最高刑を死刑・無期とし、翌年にも大規模な検挙をおこないました(四・一六事件)。

金解禁と昭和恐慌

1929(昭和4)年に成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣は、大蔵大臣に井上準之助を起用し、財政を緊縮して物価の引下げをはかり、産業の合理化を進めて国際競争力の強化を目指しました。そして1930(昭和5)年1月に金輸出解禁(金解禁)を断行しました。

金解禁を実施したちょうどその頃、1929年10月にニューヨークのウォール街で始まった株価暴落が世界恐慌に発展していたため、日本経済は金解禁による不況とあわせて二重の打撃を受け、深刻な恐慌状態に陥りました(昭和恐慌)。

輸出が大きく減少し、企業の操業短縮・倒産があいつぎ、合理化によって賃金引下げや人員整理がおこなわれて失業者が増大しました。米価は暴落し、アメリカへの生糸輸出は激減、繭の価格も大きく下落しました。1930年には豊作のためにさらに米価がおし下げられて農家は「豊作貧乏」となり、翌年には東北・北海道が大凶作に見舞われました。東北地方を中心に農家の困窮は著しく(農業恐慌)、欠食児童や子女の身売りが続出しました。

ここが問われる: 昭和恐慌の二重構造 因果関係

金解禁による不況:旧平価での解禁で実質的に円高→輸出不振
世界恐慌の波及:アメリカへの生糸輸出激減→農村経済の崩壊
この二重の打撃が昭和恐慌の深刻さを生んだ

恐慌からの脱出と高橋財政

1931(昭和6)年12月に成立した立憲政友会の犬養毅内閣の大蔵大臣高橋是清は、ただちに金輸出再禁止を断行し、日本は管理通貨制度に移行しました。円相場は大幅に下落(円安)し、基盤で合理化を進めていた産業は輸出を飛躍的にのばしていきました。

とくに綿織物の輸出拡大はめざましく、イギリスにかわって世界第1位の規模に達しました。赤字国債の発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張で産業界は活気づき、日本は1933(昭和8)年頃には世界恐慌以前の生産水準を回復しました。

軍需と保護政策とに支えられて重化学工業がめざましく発達し、金属・機械・化学工業をあわせた生産額は1933年に繊維工業を上まわりました。鉄鋼業では八幡製鉄所と財閥系製鉄会社が合同して国策会社日本製鉄が生まれました。日産・日窒などの新興財閥が台頭し、軍と結びついて満洲・朝鮮へも進出しました。

農村では、政府は1932年度から時局匡救事業と称して公共土木事業をおこない、農民に現金収入の途を与えました。さらに農山漁村経済更生運動を始め、産業組合の拡充などを通じて農村の自力更生をはかりました。

この記事のつながり

第一次世界大戦後の慢性的不況から金融恐慌・昭和恐慌へと日本経済は深刻な危機を経験しました。恐慌下の社会不安と政党政治への失望が、軍部の台頭とテロ事件の温床となっていきます。

  • ← 14-3 市民生活の変容と大衆文化:大戦景気と都市化の裏側で慢性不況が進行
  • 戦後恐慌 → 金融恐慌 → 昭和恐慌:連鎖する経済危機が社会不安を拡大
  • 財閥の成長 → 政党との癒着:世間の反感が軍部・右翼への支持に転化
  • 農村の窮乏 → 社会不安:恐慌下の困窮がテロ・クーデタの温床に
  • → 15-2 軍部の台頭:満洲事変と政党政治の崩壊へ

まとめ

  • 1920年代の日本経済は戦後恐慌関東大震災と続く慢性的不況にあった
  • 1927年の金融恐慌は震災手形問題と大蔵大臣の失言が引き金となった
  • 金融恐慌の過程で財閥が産業支配を強め、政党との結びつきも深まった
  • 浜口内閣の金輸出解禁世界恐慌と重なり昭和恐慌をもたらした
  • 農村では農業恐慌で困窮が深刻化し、欠食児童や身売りが続出した
  • 高橋是清金輸出再禁止と積極財政で1933年頃には景気が回復した
  • 新興財閥が台頭し、重化学工業中心の産業構造へ転換した
この節を100字で要約すると

1920年代の慢性不況は金融恐慌・昭和恐慌へと深刻化した。高橋是清の金輸出再禁止と積極財政で景気は回復したが、軍事費膨張と財閥の産業支配が進み、社会不安は軍部台頭の土壌となった。

穴埋め・一問一答

Q1. 1927年に震災手形処理問題から発生した恐慌を何というか。そのきっかけは何か。

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金融恐慌。震災手形処理法案の審議中に大蔵大臣の失言で銀行の経営危機が誤った内容で公表され、取付け騒ぎが発生したことがきっかけ。

Q2. 1930年の昭和恐慌が特に深刻だった理由を、2つの要因から説明せよ。

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浜口内閣による金輸出解禁(旧平価による実質円高で輸出不振)と、世界恐慌の波及(アメリカへの生糸輸出激減)という二重の打撃を受けたため。

Q3. 昭和恐慌からの脱出を図った大蔵大臣は誰か。その政策を2つ答えよ。

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高橋是清金輸出再禁止(管理通貨制度への移行・円安による輸出促進)と、赤字国債発行による積極財政(軍事費・農村救済費の支出)。

Q4. 金融恐慌後に預金が集中した五大銀行を答えよ。

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三井三菱住友安田第一の五大銀行。

Q5. 1928年の普通選挙による最初の総選挙後、田中義一内閣が共産党員を一斉検挙した事件を何というか。

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三・一五事件。田中内閣はさらに治安維持法を改正して最高刑を死刑・無期とした。

アウトプット演習

問1 A 基礎 説明

1920年代から1930年代前半にかけての日本経済の変遷を、戦後恐慌・金融恐慌・昭和恐慌・恐慌からの脱出に着目して説明せよ。

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解答

第一次世界大戦後、ヨーロッパの復興でアジア市場から日本製品が圧迫され、1920年に戦後恐慌が発生した。1923年の関東大震災を経て、1927年には震災手形問題から金融恐慌がおきた。金融恐慌で中小銀行の整理が進み、五大銀行に預金が集中して財閥の産業支配が強まった。1930年には浜口内閣の金輸出解禁と世界恐慌の波及が重なり、昭和恐慌が発生した。農村では農産物価格の暴落で農業恐慌がおき、欠食児童や身売りが続出した。1931年末に高橋是清が金輸出再禁止を断行し、円安を利用した輸出促進と積極財政で1933年頃には景気が回復し、重化学工業中心の産業構造への転換が進んだ。