12世紀後半、平氏の専制政治に対する不満が高まる中、以仁王の令旨をきっかけに各地で武士が挙兵しました。
源頼朝は鎌倉を拠点に東国武士を御家人として組織し、平氏を滅亡させたのち、守護・地頭を設置して全国に支配を広げます。
頼朝の死後、北条氏が執権として実権を握り、承久の乱を経て幕府の支配力は西国にもおよんでいきます。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 1180年 | 以仁王の令旨。源頼朝が挙兵し鎌倉に入る |
| 1183年 | 寿永二年十月宣旨 → 頼朝の東国支配権を朝廷が承認 |
| 1185年 | 壇の浦の戦いで平氏滅亡。守護・地頭の設置 |
| 1189年 | 奥州藤原氏を滅ぼす |
| 1192年 | 頼朝が征夷大将軍に任命される |
| 1203年 | 北条時政が頼家を廃し実朝を擁立 → 執権の始まり |
| 1221年 | 承久の乱 → 六波羅探題の設置 |
| 1225年 | 連署・評定衆の設置 |
| 1232年 | 御成敗式目(貞永式目)の制定 |
平清盛は1179(治承3)年に後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、関白以下多数の貴族を解任するなど強圧的手段で国家機構のほとんどを手中におさめました。さらに翌年には娘の徳子が生んだ子を安徳天皇として即位させ、外戚の地位も手に入れました。
しかし清盛の権力集中はかえって中央の貴族・大寺院や地方の武士団のあいだで不満を高めました。
1180(治承4)年、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政が平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける令旨が諸国の武士に伝えられました。これに応じて伊豆の源頼朝、信濃の源義仲をはじめ各地の武士団が挙兵し、5年にわたる争乱が続きました(治承・寿永の乱)。
源義仲が平氏を都から追い出したものの後白河法皇と対立すると、頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣して義仲を討ちました。範頼・義経の軍勢は、摂津の一の谷、讃岐の屋島の戦いを経て、1185(文治元)年に長門の壇の浦で平氏を滅亡させました。
①1180年:以仁王の令旨 → 源頼朝・源義仲らが各地で挙兵
②1183年:源義仲が平氏を都から追い出すが、法皇と対立
③1184年:一の谷の戦い
④1185年:屋島の戦い → 壇の浦の戦いで平氏滅亡
※この一連の争乱を治承・寿永の乱という
頼朝は挙兵すると、相模の鎌倉を根拠地として広く武士たちと主従関係を結び、御家人として組織しました。東国の荘園・公領を支配して御家人たちの所領支配を保障していきました。
鎌倉には中央機関として、御家人を統制する侍所、一般政務や財政事務をつかさどる政所(初めは公文所)、裁判事務を担当する問注所がおかれました。1183(寿永2)年には、東海・東山両道の東国の支配権の承認を朝廷から得ました(寿永二年十月宣旨)。
1185(文治元)年、平氏滅亡後、頼朝は義経追討を名目として、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利を獲得しました。
守護は原則として各国に1人ずつ、おもに東国出身の有力御家人が任命されました。軍事指揮官として国内の御家人を指揮し、平時は大犯三カ条(京都大番役の催促、謀反人・殺害人の逮捕)など治安の維持と警察権の行使に当たりました。
地頭は御家人の中から任命され、おもに平家没官領を中心とする荘園や公領におかれ、年貢の徴収・納入と土地の管理および治安の維持を任務としました。
御恩と奉公という主従関係は、土地の給与を通じて成り立ちました。この関係にもとづく制度を封建制度といいます。
【中央】侍所:御家人の統制 / 政所(公文所):一般政務・財政 / 問注所:裁判事務
【地方】守護:各国1人、大犯三カ条など / 地頭:荘園・公領の年貢徴収・管理
【その他】京都守護:朝廷との交渉 / 鎮西奉行:九州の御家人統轄
幕府支配の根幹となったのは、将軍と御家人との主従関係です。頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな所領を与えたりしました(新恩給与)。この御恩に対して御家人は、戦時には軍役を、平時には京都大番役や鎌倉番役などをつとめて奉公しました。
一方、この時代には京都の朝廷や貴族・大寺社を中心とする荘園領主の力もまだ強く残っていました。朝廷は国司を任命して全国の一般行政を統轄し、貴族・大寺社は受領や荘園領主として土地からの収益の多くを握っていました。政治の面でも経済の面でも、公家と武家との二元的な支配がこの時期の特徴です。
御恩:本領安堵(先祖伝来の所領を保障)+ 新恩給与(新たな所領を与える)
奉公:軍役(合戦への参加)+ 番役(京都大番役・鎌倉番役)
※土地を介した主従関係 → 封建制度の成立
※朝廷による公家支配も併存 → 公武二元支配
1199(正治元)年に頼朝が死去すると、子の頼家・実朝の時代になり、御家人中心の政治を求める動きが強まりました。有力御家人のあいだで主導権をめぐる争いが続き、その中で勢力をのばしたのが伊豆の在庁官人出身の北条氏です。
1203(建仁3)年、頼朝の妻北条政子の父である北条時政は、比企能員を滅ぼし、将軍の頼家を廃して弟の実朝を立て、幕府の実権を握りました。この地位は執権と呼ばれ、子の義時に継承されました。義時は和田義盛を滅ぼし(和田合戦)、政所と侍所の別当を兼ねてその地位を固めました。
1219(承久元)年、将軍源実朝が頼家の子公暁に暗殺され、源氏の将軍は3代で断絶しました。幕府は摂関家出身の幼い藤原頼経を将軍に迎えました(摂家将軍)。
1221(承久3)年、後鳥羽上皇は院政の強化をはかり、北条義時追討の兵をあげました。しかし東国武士の大多数は北条政子の呼びかけに応じて幕府側に結集し、幕府軍は京都を攻めて圧倒的な勝利をおさめました(承久の乱)。
乱後、幕府は後鳥羽上皇ら3上皇を配流し、上皇方の所領約3000カ所を没収して御家人を地頭に任命しました。京都には六波羅探題をおいて朝廷を監視し、西国の統轄に当たらせました。これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになりました。
①後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流
②上皇方の所領約3000カ所を没収 → 御家人を新補地頭に任命
③京都に六波羅探題を設置 → 朝廷の監視と西国の統轄
④幕府の支配権が西国にも拡大 → 朝廷に対する幕府の優位が確立
承久の乱後、3代執権北条泰時の指導のもとに幕府は発展の時期を迎えました。泰時は執権を補佐する連署をおいて北条氏一門の有力者をこれに当て、ついで有力な御家人や政務にすぐれた者を評定衆に選んで、執権・連署が主導する合議制にもとづいて幕府の政治や裁判に当たらせました。
1232(貞永元)年、泰時は御成敗式目(貞永式目)51カ条を制定しました。この式目は頼朝以来の先例や、道理と呼ばれる武士社会での慣習・道徳にもとづいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を公平に裁く基準を明らかにしたもので、武家独自の最初の整った法典でした。
泰時の政策は孫の5代執権北条時頼に受け継がれました。時頼は評定のもとに新たに引付をおいて引付衆を任命し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、迅速で公正な裁判の確立につとめました。
連署:執権を補佐。北条氏一門から任命
評定衆:執権・連署とともに合議で政務・裁判を担当
御成敗式目(1232年):51カ条。武家最初の体系的法典。道理にもとづく
引付衆:時頼が設置。所領訴訟を専門に担当
源平の争乱から鎌倉幕府の成立は、院政期に成長した武士団が、御恩と奉公の主従関係にもとづく本格的な武家政権をつくりあげた過程です。承久の乱を経て幕府は全国政権に成長し、御成敗式目による法治が確立しました。
源頼朝は鎌倉を拠点に御家人を組織し、守護・地頭を設置して武家政権を確立した。頼朝の死後、北条氏が執権として実権を握り、承久の乱を経て全国政権に成長。泰時が御成敗式目を制定し、合議に基づく執権政治が確立した。
Q1. 1180年、源頼朝の挙兵のきっかけとなった、以仁王が発した命令を何というか。
Q2. 1185年、源義経が平氏を滅ぼした戦いの名を何というか。
Q3. 鎌倉幕府の中央機関で、御家人の統制を担当した機関を何というか。
Q4. 守護の平時の主要任務である「大犯三カ条」の内容を述べよ。
Q5. 1221年の承久の乱後、京都に設置された幕府の出先機関を何というか。
Q6. 1232年に北条泰時が制定した、武家最初の体系的法典を何というか。
Q7. 将軍が御家人に先祖伝来の所領の支配を保障することを何というか。
鎌倉幕府の中央機関と地方機関をそれぞれ挙げ、その役割を述べよ。
【中央】侍所:御家人の統制。政所(公文所):一般政務・財政事務。問注所:裁判事務。
【地方】守護:各国に1人、大犯三カ条など治安維持。地頭:荘園・公領での年貢徴収・土地管理。京都守護:朝廷との交渉。鎮西奉行:九州の御家人統轄。
承久の乱の原因・経過・結果を述べ、この乱が幕府と朝廷の関係にどのような変化をもたらしたか説明せよ。
【原因】後鳥羽上皇が朝廷権力の回復をはかり、北条義時追討の兵をあげた。
【経過】東国武士の大多数は北条政子の呼びかけに応じて幕府側に結集。幕府軍が京都を攻め、約1カ月で勝利した。
【結果】3上皇を配流し、上皇方の所領約3000カ所を没収して御家人を地頭に任命。京都に六波羅探題を設置した。
【変化】畿内・西国にも幕府の支配力がおよぶようになり、朝廷に対する幕府の優位が確立した。幕府は朝廷の皇位継承にも干渉するようになった。
御成敗式目の制定目的と内容の特徴を述べよ。また、公家法・本所法との関係についても触れよ。
【目的】守護・地頭の任務と権限を定め、御家人間や御家人と荘園領主との紛争を公平に裁く基準を明示すること。
【特徴】頼朝以来の先例と、道理と呼ばれる武士社会の慣習・道徳にもとづいて制定された。武家独自の最初の体系的法典である。
【公家法・本所法との関係】御成敗式目は幕府の支配範囲を対象とする法で、朝廷のもとでは律令の系統を引く公家法が、荘園領主のもとでは本所法が、それぞれ効力をもっていた。ただし幕府の勢力拡大につれて、武家法の影響力は公家法・本所法の対象となる人々にも広がっていった。