第4章 貴族政治の展開

国風文化
─ かな文字の発達と浄土教の広まり

10〜11世紀、それまでに受け入れた大陸文化をふまえつつ、日本の風土や人々の感性に合うように工夫された、優雅で洗練された文化が花開きました。
かな文字の発達は和歌や物語の隆盛をもたらし、浄土教の流行は末法思想とあいまって建築・美術にも大きな影響を与えます。
この文化は国風化という点に特色があるので、国風文化と呼ばれます。

1国風文化の特色 ─ 大陸文化の消化と日本化

10〜11世紀の文化は、それまでに受け入れられた大陸文化をふまえ、これに日本人の感情や嗜好を加味し、さらに日本の風土に合うように工夫した、優雅で洗練された文化です。このように国風化という点に特色があるので、国風文化と呼ばれます。

国風文化は、中国文化との断絶のもとで形成されたのではなく、博多を窓口にして流入した中国文物の摂取・消化のうえに成り立っていました。遣唐使中止後も宋の商人の来航は続き、大陸の文物は引き続き日本にもたらされていたのです。

ここが問われる: 国風文化の性格 内容・特徴

時期:10〜11世紀
特色:大陸文化を消化・日本化した優雅で洗練された文化
※中国文化との断絶ではなく、博多を窓口に中国文物を摂取・消化したうえに成立
※藤原氏の最盛期にあたるため藤原文化ともよばれる

2かな文字の発達と文学の隆盛

かな文字の成立

文化の国風化を象徴するのは、かな文字の発達です。万葉仮名の草書体を簡略化した平がなや、漢字の一部分をとった片かなは、早くから表音文字として用いられていましたが、9世紀後半にはそれらの字形が人々に共有されて広く使われるようになりました。

その結果、人々の感情や感覚を日本語でいきいきと伝えることが可能になり、多くの文学作品が生まれました。

ここが問われる: かな文字の種類と成立 比較

平がな:万葉仮名の草書体を簡略化して成立
片かな:漢字の一部分をとって成立
※9世紀後半に字形が共有され、10世紀以降に和歌・物語などかな文学が隆盛

和歌と勅撰和歌集

かな文字の発達により和歌がさかんになりました。905(延喜5)年紀貫之らによって最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編集されました。その繊細で技巧的な歌風は古今調と呼ばれ、長く和歌の模範とされました。

かな物語と日記文学

かな物語では、伝説を題材にした『竹取物語』や歌物語の『伊勢物語』などに続いて、中宮彰子(藤原道長の娘)に仕えた紫式部の『源氏物語』が生まれました。これは宮廷貴族の生活を題材にした大作で、『白氏文集』など中国文学への深い理解を背景にもっています。

また、一条天皇の中宮定子に仕えた清少納言が宮廷生活の体験を随筆風に記した『枕草子』も、国文学の最高傑作の1つとされています。

紀貫之は最初のかなの日記として知られる『土佐日記』を著し、かなの日記は宮廷に仕える女性によって多く記されました。こうしたかな文学の隆盛は、貴族たちが天皇の後宮に入れた娘たちにつきそわせた、すぐれた才能をもつ女性たちに負うところが大きいものでした。

ここが問われる: 国風文化のおもな文学作品 列挙

勅撰和歌集:『古今和歌集』(紀貫之ら、905年)
物語:『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』(紫式部)
随筆:『枕草子』(清少納言)
日記:『土佐日記』(紀貫之)
※『源氏物語』『枕草子』とも『白氏文集』など中国文学への深い理解が背景にある

3浄土教の流行と信仰

天台・真言と貴族の信仰

この時代の仏教は、天台真言の2宗が圧倒的な勢力をもち、加持祈禱を通じて現世利益を求める貴族と強く結びつきました。その一方で神仏習合も進み、仏と日本固有の神々を結びつける本地垂迹説が広まりました。神は仏が仮に形をかえてこの世に現れたもの(権現)とする思想で、のちには天照大神を大日如来の化身と考えるようになりました。

また、この時代には怨霊や疫神をまつることで災いを避けようとする信仰が広まり、御霊会がさかんにもよおされました。貴族たちは運命や吉凶を気にかけ、陰陽道の影響を受けて方違や物忌をおこないました。

ここが問われる: 神仏習合と本地垂迹説 内容・特徴

神仏習合:日本固有の神と仏教を結びつける考え方
本地垂迹説:神は仏が仮の姿(垂迹)で現れたもの。仏が本体(本地)
御霊会:怨霊や疫神をまつる行事。北野天満宮や祇園社の祭りの起源
陰陽道:方違・物忌など日常生活に大きな影響

浄土教の広まり

現世利益を求めるさまざまな信仰と並んで、現世の不安から逃れようとする浄土教も流行してきました。浄土教は、阿弥陀仏を信仰し、来世において極楽浄土に往生し、そこで悟りを得ることを願う教えで、中国から伝わったものです。

10世紀半ばに空也が京の市で念仏を説き、ついで源信(恵心僧都)が『往生要集』を著して念仏の教えを説くと、浄土教は貴族をはじめ庶民のあいだにも広まりました。

浄土教はなぜ広まったのか
盗賊や乱闘が多くなり、災厄がしきりにおこった世情
1052年から末法の世に入るという末法思想が広まる
仏教の説く末法の世と現実がよく当てはまると考えられた
来世で救われたいという願望 → 阿弥陀仏を信仰する浄土教が流行

空也が京の市で念仏を説き、源信が『往生要集』を著して念仏の教えを広めました。めでたく往生をとげたとされた人々の伝記を集めた慶滋保胤の『日本往生極楽記』をはじめ、多くの往生伝もつくられました。

ここが問われる: 浄土教の広まり 変化

空也:10世紀半ば、京の市で念仏を説く。「市聖」とよばれた
源信(恵心僧都):『往生要集』を著し念仏の教えを説く
末法思想:1052年から末法の世に入るという考え → 浄土教の流行を後押し
慶滋保胤:『日本往生極楽記』(往生伝の代表)

4建築と美術工芸 ─ 寝殿造と大和絵

寝殿造

美術工芸の面でも国風化の傾向は著しく現れました。貴族の住宅は、白木造・檜皮葺で開放的な寝殿造と呼ばれる日本風のものになり、板張りの床の上に畳や円座をおいて座る生活になりました。

大和絵と工芸

屏風など建物内部の仕切りには、中国の故事や風景を描いた唐絵とともに、日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な彩色をもつ大和絵も描かれました。屋内の調度品にも、日本独自に発達をとげた蒔絵螺鈿の手法が多く用いられました。

書道の和様化

書道も、前代の唐風の書に対し、優美な線を表した和様が発達し、小野道風藤原佐理藤原行成三跡と呼ばれる名手が現れました。

ここが問われる: 三筆と三跡の比較 比較

三筆(弘仁・貞観文化・唐風):嵯峨天皇・空海・橘逸勢
三跡(国風文化・和様):小野道風藤原佐理藤原行成
※唐風の書から和様への転換が国風文化の特色

5浄土教美術 ─ 平等院鳳凰堂と定朝

浄土教の流行にともない、これに関係した建築・彫刻がさかんにつくられました。藤原頼通が宇治の別荘を寺としたのが平等院で、その阿弥陀堂である鳳凰堂1053(天喜元)年に落成しました。

鳳凰堂の本尊の阿弥陀如来像をつくった仏師定朝は、従来の一木造にかわる寄木造の手法を完成し、末法思想を背景とする仏像の大量需要にこたえました。また、往生しようとする人を仏が迎えにくる場面を示した来迎図もさかんに描かれました。

また、法華経などの経典を書写し、これをのちに伝えるため容器(経筒)におさめて地中に埋める経塚も各地に営まれました。

ここが問われる: 浄土教関連の建築と彫刻 列挙

平等院鳳凰堂:藤原頼通が建立(1053年)。宇治にある阿弥陀堂
定朝:鳳凰堂の阿弥陀如来像を制作。寄木造の手法を完成
来迎図:阿弥陀仏が往生者を迎えにくる場面を描く
経塚:経典を経筒に入れて地中に埋納(藤原道長の金峯山経塚が有名)

6貴族の生活と年中行事

貴族の男性の正装は唐風の朝服を日本風にかえた束帯やその略式の衣冠、女性の正装は女房装束(十二単)で、これらは唐風の服装を大幅に日本人向きにつくりかえた優美なものでした。

9世紀半ば以降、日本古来の風習や中国に起源をもつ行事などは年中行事として編成され、宮廷生活の中で洗練されて発展しました。年中行事には、大祓・賀茂祭のような神事や、潅仏のような仏事、相撲などの遊芸のほか、叙位・除目(官吏の任命)など政務に関することまで含まれていました。

これらの行事に参加した経験を先例として子孫に伝えるために、貴族たちは日記を記しました。藤原道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』はその代表例です。また先例を分類・整理して行事ごとに次第を記した儀式書も編まれ、源高明の『西宮記』や藤原公任の『北山抄』が有名です。

ここが問われる: 貴族の日記と儀式書 列挙

日記:『御堂関白記』(藤原道長)、『小右記』(藤原実資)
儀式書:『西宮記』(源高明)、『北山抄』(藤原公任)
※先例を重視する年中行事の運営が、記録の必要を生んだ

7この記事のつながり

国風文化は、弘仁・貞観文化で培われた漢文学の教養を基盤としつつ、かな文字の発達により日本語による表現が可能になったことで花開きました。浄土教の流行は末法思想と結びつき、院政期の文化へとつながっていきます。

  • ← 3-4 律令国家の変容:弘仁・貞観文化の漢文学の教養が、国風文化の成立基盤となった
  • ← 4-1 摂関政治:遣唐使中止後も博多経由で大陸文物が流入。摂関家の繁栄が文化の担い手を支えた
  • 浄土教 → 院政期の文化:末法思想と浄土教の流行が、院政期の仏教美術や浄土庭園の発展に直結
  • かな文学 → 中世文学:『源氏物語』『枕草子』は後世の文学・美術作品の素材として広く用いられた

8まとめ

  • 国風文化は、大陸文化を消化・日本化した10〜11世紀の文化。中国文化との断絶ではない
  • かな文字(平がな・片かな)が発達し、和歌・物語などかな文学が隆盛
  • 古今和歌集』(905年、紀貫之ら)が最初の勅撰和歌集
  • 紫式部『源氏物語』、清少納言『枕草子』が代表的なかな文学
  • 浄土教空也源信(『往生要集』)によって広まり、末法思想と結びついて流行
  • 本地垂迹説による神仏習合の進展。御霊会陰陽道も貴族生活に浸透
  • 寝殿造大和絵蒔絵螺鈿など美術工芸の国風化。書道は和様が発達(三跡
  • 平等院鳳凰堂(藤原頼通、1053年)。仏師定朝寄木造を完成
この章を100字で要約すると

10〜11世紀、大陸文化を日本化した国風文化が花開いた。かな文字の発達で『源氏物語』『枕草子』などかな文学が隆盛し、浄土教は末法思想と結びつき流行した。寝殿造・大和絵・蒔絵など生活文化も国風化し、定朝が寄木造を完成させた。

9穴埋め・一問一答

Q1. 905年に編集された最初の勅撰和歌集は何か。

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『古今和歌集』(こきんわかしゅう)。紀貫之らが編集。繊細で技巧的な歌風は古今調と呼ばれた。

Q2. 『源氏物語』の作者は誰か。

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紫式部(むらさきしきぶ)。中宮彰子に仕えた女性。宮廷貴族の生活を描いた大作。

Q3. 宮廷生活を随筆風に記した『枕草子』の作者は誰か。

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清少納言(せいしょうなごん)。中宮定子に仕えた女性。

Q4. 10世紀半ばに京の市で念仏を説き「市聖」と呼ばれた人物は誰か。

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空也(くうや)。民間で浄土教を広めた先駆者。

Q5. 『往生要集』を著して念仏の教えを説いた僧は誰か。

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源信(げんしん)。恵心僧都ともよばれる。浄土教を貴族・庶民に広めた。

Q6. 藤原頼通が宇治に建立した阿弥陀堂を何というか。

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平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)。1053年に落成。本尊は定朝作の阿弥陀如来像。

Q7. 国風文化の書道で和様の名手として知られる三跡を3人挙げよ。

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小野道風藤原佐理藤原行成。弘仁・貞観文化の三筆(唐風)に対し、和様の書を代表する。

10アウトプット演習

問1 A 基礎 内容・特徴

国風文化の特色を、大陸文化との関係に触れながら説明せよ。

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解答

国風文化は、それまでに受け入れた大陸文化をふまえ、これに日本人の感情・嗜好を加味し、日本の風土に合うように工夫した、優雅で洗練された文化である。遣唐使は中止されたが、博多を窓口に宋の商人を通じて中国文物は引き続きもたらされており、中国文化との断絶のうえに成り立ったものではなく、その消化・日本化のうえに成立した。

問2 A 基礎 結果・影響

浄土教が広まった背景を、末法思想と関連づけて説明せよ。

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解答

盗賊や乱闘が多くなり災厄がしきりにおこった世情は、仏教の説く末法の世によく当てはまると考えられた。1052年から末法の世に入るとされ、来世で救われたいという願望が高まった。空也が京の市で念仏を説き、源信が『往生要集』を著して念仏の教えを広めると、浄土教は貴族をはじめ庶民のあいだにも浸透していった。

問3 B 標準 比較

弘仁・貞観文化と国風文化を、書道・文学の面から比較して説明せよ。

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解答

弘仁・貞観文化では唐風の書が広まり、嵯峨天皇・空海・橘逸勢が三筆と称された。文学面では漢詩文が重視され、文章経国の思想が広がった。
国風文化では優美な和様の書が発達し、小野道風・藤原佐理・藤原行成が三跡と称された。文学面ではかな文字の発達により、和歌や物語・随筆・日記などかな文学が隆盛した。唐風から和様への転換が国風文化を特徴づけている。

解説

弘仁・貞観文化の唐風の教養(漢文学への深い理解)があったからこそ、それを消化・日本化した国風文化が成立しました。『源氏物語』『枕草子』も『白氏文集』など中国文学への理解を背景にもっている点が重要です。