8世紀後半、仏教政治の弊害や政界の動揺を受けて、光仁天皇・桓武天皇が政治の立て直しに着手しました。
桓武天皇は平安京への遷都と蝦夷征討を進め、令外官の設置や班田制の改革など積極的な政治改革をおこないます。
しかし二大事業の負担は重く、班田制は行き詰まり、律令国家は大きく変容していきます。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 770年 | 光仁天皇が即位、行財政の簡素化に着手 |
| 781年 | 桓武天皇が即位 |
| 784年 | 長岡京に遷都 |
| 792年 | 軍団・兵士を廃止し健児の制を実施 |
| 794年 | 平安京に遷都(平安時代の始まり) |
| 802年 | 坂上田村麻呂が胆沢城を築く。阿弖流為が降伏 |
| 805年 | 徳政相論 → 二大事業の打ち切り |
| 810年 | 平城太上天皇の変(薬子の変)→ 蔵人頭の設置 |
| 820年代〜 | 弘仁格式の編纂、検非違使の設置 |
光仁天皇は行財政の簡素化や民衆の負担軽減など、政治再建策の実施につとめました。その後を継いだ桓武天皇は、仏教政治の弊害を改め、天皇権力を強化するために、784(延暦3)年に平城京から山背国の長岡京に遷都しました。
しかし、造営の責任者であった藤原種継が暗殺され、その関謀者とされた皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)が廃されて死去する事件がおきました。その後、桓武天皇の母や皇后があいついで死去するなどの不幸があり、早良親王の怨霊によるものとされました。
こうした怨霊の問題や長岡京の完成の遅れから、794(延暦13)年に平安京に再度遷都がおこなわれ、山背国も山城国と改められました。この平安京への遷都から、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約400年間を平安時代といいます。
桓武天皇は南都(奈良)の大寺院を新京に移転させず、最澄・空海らの新しい仏教を支持しました。
①784年:仏教政治の弊害を避けて長岡京に遷都
②藤原種継暗殺・早良親王の怨霊問題で長岡京を断念
③794年:平安京に遷都 → 平安時代の始まり
※奈良の大寺院を新京に移転させなかった点が重要
東北地方では、桓武天皇の時代に律令国家がさらに北に向けて支配を拡大しました。陸奥国では多賀城を拠点に北上しながら城柵を設けていき、出羽国では秋田城を拠点に日本海側に勢力をのばしていきました。
光仁天皇の780(宝亀11)年に、服属していた蝦夷の豪族伊治呰麻呂が反乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれて焼き払うという大規模な戦いへと発展しました。この頃から、東北地方では30年以上にわたって戦争があいつぎました。
桓武天皇の789(延暦8)年には大軍を進めて北上川中流の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしましたが、蝦夷の族長阿弖流為の活躍により政府軍が大敗しました。
その後、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、802(延暦21)年に胆沢の地に胆沢城を築いて阿弖流為を降伏させ、さらに翌年、北上川上流に志波城を築造し、東北経営の前進拠点としました。これにともない、多賀城におかれていた鎮守府は胆沢城に移されました。
①780年:伊治呰麻呂の反乱 → 多賀城陥落
②789年:政府軍が阿弖流為に大敗
③802年:征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城を築き阿弖流為を降伏させる
④803年:志波城を築造。鎮守府を多賀城から胆沢城に移す
東北地方での蝦夷との戦いと平安京の造営という二大事業は、国家財政や民衆にとって大きな負担となりました。805(延暦24)年、桓武天皇は徳政相論と呼ばれる議論を裁定しました。
藤原緒嗣は「天下の民を苦しめているのは軍事と造作である」と批判し、二大事業の中止を主張しました。これに対し菅野真道は継続を主張しましたが、桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、蝦夷との戦争と平安京の造営をともに停止しました。
805年の政策論争
藤原緒嗣:軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)の停止を主張 → 採用
菅野真道:二大事業の継続を主張 → 不採用
※「軍事と造作」という対語での出題が頻出
桓武天皇は、国家財政悪化の原因となった地方政治の緩みをなくそうとし、増えていた定員外の国司や郡司を廃止するとともに、新たに勘解由使を設けて、国司の交替の際の事務引継ぎをきびしく監督させました。
勘解由使は令外官の1つで、国司在任中の租税徴収や官有物の管理などに問題がない場合に、新任国司から前任国司に与えられる解由状という文書の審査に当たりました。
軍事面では、唐の衰退などで東アジアの緊張が緩和したことを受けて、792(延暦11)年に東北や九州などの地域を除いて軍団と兵士を廃止し、かわりに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健児を採用しました。
桓武天皇は班田収授を継続させるため、6年ごとの戸籍作成にあわせて6年に1回であった班田の期間を、12年に1回に改めました(一紀一班)。また、公出挙の利率を5割から3割に下げ、雑徭の日数を年間60日から30日に減らすなど、負担を軽減して農民生活の維持を目指しました。
①勘解由使の設置 → 国司交替の監督強化(令外官)
②健児の制 → 軍団・兵士を廃止し少数精鋭に転換(792年)
③班田を12年に1回(一紀一班)に変更
④公出挙の利率を5割→3割、雑徭を60日→30日に軽減
桓武天皇の積極的な政治改革の方針は、平城天皇・嵯峨天皇にも引き継がれました。平城天皇は官司統廃合を大胆に進め、財政負担の軽減をはかりました。
嵯峨天皇が即位すると改革に着手しましたが、810(弘仁元)年に、平城京に還都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、「二所朝廷」と呼ばれる政治的混乱が生じました。結局、嵯峨天皇側が迅速に兵を展開して、太上天皇を出家に追い込み、その寵愛を受けていた藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原仲成は射殺されました(平城太上天皇の変、薬子の変)。
この対立の際に、天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝えるために、天皇の秘書官長としての蔵人頭が設けられ、藤原冬嗣らが任命されました。その役所が蔵人所で、所属する蔵人たちは、やがて天皇の側近として宮廷で重要な役割を果たすようになりました。
また嵯峨天皇は、平安京内の警察に当たる検非違使を設けましたが、この検非違使も、のちには裁判までおこなうようになるなど、京の統治を担う重要な職となっていきました。
勘解由使:桓武天皇が設置。国司交替の事務引継ぎを監督
蔵人頭:嵯峨天皇が設置(810年)。天皇の機密文書をあつかう秘書官長
検非違使:嵯峨天皇が設置。平安京の警察(のち裁判も担当)
※いずれも律令に定めのない令外官。律令制の枠組みを超えて実務に対応した
嵯峨天皇のもとでは、法制の整備も進められました。律令制定後、社会の変化に応じて出された法令を、律令の補足・修正法である格と施行細則である式に分類・編集し、弘仁格式がつくられました。
これは現実にあわせて官庁の実務の便をはかったもので、このあとさらに貞観格式・延喜格式が編集されました。これらをあわせて三代格式といいます。
また、833(天長10)年には、令の解釈を公式に統一した『令義解』が清原夏野らによって編まれ、9世紀後半には、令に関する法律家たちの注釈を集めた『令集解』が惟宗直本によって編まれました。
格:律令の補足・修正法 / 式:施行細則
①弘仁格式(嵯峨天皇)
②貞観格式(清和天皇)
③延喜格式(醍醐天皇)
※律令の条文を変えずに、格・式で実情に対応した点が重要
8世紀後半から9世紀になると、農民間に貧富の差が拡大し、有力農民もさまざまな手段で負担を逃れようとしました。戸籍には、兵役・労役・租税を負担する成人男性を避けて、負担の少ない女性などの登録を増やす偽りの記載(偽籍)が目立つようになりました。
こうして政府による農民把握は実態とあわなくなり、手続きの煩雑さもあって、班田収授の実施はしだいに困難になっていきました。桓武天皇は班田の間隔を12年に1回に改めましたが、効果はないまま、9世紀には班田が何十年もとどこおるようになりました。
調・庸などの未納によって中央の国家財政の維持が困難になると、政府は国司・郡司たちの不正・怠慢の取り締まりを強化しました。また、823(弘仁14)年には大宰府管内に公営田、879(元慶3)年には畿内に官田(元慶官田)を設け、有力農民を使った直営方式で収益をはかるなど、財源の確保につとめました。
天皇にも公費で開墾された勅旨田、皇族にも天皇から与えられた賜田があり、それぞれ独自の財源とされました。天皇と近い関係にあり、院宮王臣家と呼ばれた少数の皇族や貴族は、私的に多くの土地を集積し、国家財政を圧迫しつつ勢力をふるうようになりました。
下級官人たちは進んで院宮王臣家の従者(家人)になろうとし、国司に対抗する地方の有力農民たちも、保護を求めて院宮王臣家の勢力下に入っていきました。
政府は公営田・官田の設置で直営方式による財源確保をはかりましたが、根本的な解決にはならず、国司に徴税を一任する受領制へと移行していきます。
①偽籍の増加 → 成人男性を女性と偽り税負担を逃れる
②班田の滞り → 9世紀には何十年も実施されず
③公営田・官田の設置(823年・879年)→ 直営方式で財源確保
④院宮王臣家の私的土地集積 → 国家財政を圧迫
嵯峨・清和天皇の時の年号から弘仁・貞観文化と呼ぶこの時代には、平安京において貴族を中心とした唐風文化が発展しました。文芸を中心として国家の繁栄を目指す文章経国の思想が広まり、宮廷では漢文学が隆盛をきわめました。
嵯峨天皇はとくに唐風を重んじ、平安宮の殿舎に唐風の名称をつけたほか、唐風の儀礼・作法を受け入れて宮廷の儀式を整えました。また、文学・学問に長じた文人貴族を政治に登用する方針をとりました。
教養として漢詩文をつくることが重視されたため、漢文学が盛んになり、著名な文人としては、嵯峨天皇・空海・小野篁・菅原道真らが知られています。また、有力貴族は一族子弟の教育のために大学別曹を設けました。
①嵯峨・清和天皇の時代の唐風文化
②文章経国の思想 → 漢文学の隆盛
③嵯峨天皇・空海・小野篁が著名な文人
④有力貴族が大学別曹を設置(和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院など)
⑤空海が庶民にも開かれた綜芸種智院を創設
奈良時代後半には仏教が政治に深く介入して弊害もあったことから、桓武天皇や嵯峨天皇は最澄・空海らの新しい仏教を支持しました。
近江出身の最澄は、804(延暦23)年の遣唐使に従って入唐し、帰国後天台宗を開きました。最澄は新しく独自の大乗戒壇の創設を目指し、南都諸宗の激しい反発を受けましたが、死後に大乗戒壇の設立が公認され、比叡山の延暦寺は平安京鎮護の寺院として発展していきました。
讃岐出身の空海は、同じく804年に入唐して長安で密教を学び、帰国後に紀伊の高野山に金剛峯寺を建て、真言宗を開きました。また、嵯峨天皇から与えられた平安京の教王護国寺(東寺)も密教の根本道場となりました。
天台宗・真言宗は、ともに国家・社会の安泰を祈りましたが、とくに加持祈禱によって災いを避け、幸福を追求するという現世利益の面から、皇族や貴族たちの支持を集めました。
天台宗:最澄。比叡山延暦寺。大乗戒壇の創設を主張
真言宗:空海。高野山金剛峯寺+京都教王護国寺(東寺)
※ともに804年に入唐。密教を重視し、加持祈禱で貴族の支持を得た
※山岳の地に伽藍を営み、在来の山岳信仰とも結びついて修験道の源流に
天台・真言両宗が盛んになると、神秘的な密教美術が新たに発展しました。彫刻では、1つの木材から姿を彫り出す一木造で、量感あふれる表現のものが多くつくられました。絵画では、密教の世界観を表した曼荼羅が発達し、教王護国寺の両界曼荼羅が代表的です。
書道では唐風の書が広まり、嵯峨天皇・空海・橘逸勢らの書家が出て、のちに三筆と称されました。
律令国家の変容は、奈良時代に完成した律令制度が社会の実態と合わなくなり、令外官や格式で実情に対応していく過程です。班田制の行き詰まりは、10世紀の受領制や荘園制の発展へと直結し、平安仏教の成立は国風文化の展開の前提となります。
桓武天皇は仏教政治を離れ平安京に遷都し、蝦夷征討・勘解由使設置・健児の制など政治改革を進めたが、班田制は行き詰まった。嵯峨天皇は蔵人頭・検非違使を設け、格式を整備。最澄・空海が天台宗・真言宗を開き密教が広まった。
Q1. 784年、桓武天皇が平城京から遷都した都はどこか。
Q2. 794年に遷都された都を何というか。
Q3. 征夷大将軍として802年に胆沢城を築き、蝦夷の族長を降伏させた人物は誰か。
Q4. 国司の交替を監督するために桓武天皇が設けた令外官を何というか。
Q5. 810年の薬子の変の際に設けられた、天皇の秘書官長にあたる職を何というか。
Q6. 比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開いた僧は誰か。
Q7. 高野山金剛峯寺を建て真言宗を開いた僧は誰か。
桓武天皇が平城京から遷都した理由と、長岡京から平安京に再遷都した理由をそれぞれ述べよ。
平城京からの遷都:仏教政治の弊害を改め、寺院勢力の強い奈良を離れて天皇権力を強化するため。
長岡京から平安京への再遷都:造営責任者の藤原種継が暗殺されたこと、皇太子の早良親王の怨霊問題、さらに長岡京の完成の遅れが重なったため。
桓武天皇・嵯峨天皇が設置した令外官を3つ挙げ、それぞれの役割を述べよ。
①勘解由使(桓武天皇):国司の交替時に解由状を審査し、事務引継ぎを監督する。
②蔵人頭(嵯峨天皇):天皇の命令を太政官組織に伝える秘書官長。810年の薬子の変を機に設置。
③検非違使(嵯峨天皇):平安京内の警察を担当。のちに裁判も担うようになった。
令外官とは律令に定められていない新しい官職です。律令の条文自体は変更せず、格・式で補うとともに、令外官を設けて実情に対応しました。これが律令制の「変容」を象徴しています。
天台宗と真言宗について、開祖・本山・入唐年を整理したうえで、両宗に共通する特色を述べよ。
天台宗:開祖は最澄、本山は比叡山延暦寺、804年に入唐。
真言宗:開祖は空海、本山は高野山金剛峯寺(京都の教王護国寺も根本道場)、804年に入唐。
共通する特色:ともに密教を重視し、加持祈禱によって災いを避け幸福を追求する現世利益の面から皇族・貴族の支持を集めた。また、山岳の地に伽藍を営み、在来の山岳信仰と結びついて修験道の源流となった。