710年、元明天皇は藤原京から奈良の平城京へ遷都し、唐にならった壮大な都が築かれました。
班田収授法と租庸調の税制で人民を支配し、遣唐使で大陸文化を吸収する一方、口分田の不足から墾田永年私財法が出され、公地公民の原則は揺らいでいきます。
律令国家の完成とその矛盾を見ていきましょう。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 708年 | 和同開珎の鋳造 |
| 710年 | 元明天皇が平城京に遷都(奈良時代の始まり) |
| 723年 | 三世一身法を施行(開墾の奨励) |
| 729年 | 長屋王の変 → 藤原四子が政権を掌握 |
| 737年 | 天然痘の流行で藤原四子が相次いで病死 → 橘諸兄が政権を掌握 |
| 740年 | 藤原広嗣の乱。聖武天皇が恭仁京に遷都 |
| 741年 | 聖武天皇が国分寺建立の詔を発する |
| 743年 | 墾田永年私財法を発布。紫香楽宮で大仏造立の詔 |
| 745年 | 平城京に戻る |
| 752年 | 東大寺大仏の開眼供養 |
| 764年 | 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱 |
| 769年 | 宇佐八幡宮神託事件 → 和気清麻呂が道鏡の皇位継承を阻止 |
| 784年 | 桓武天皇が長岡京に遷都(奈良時代の終わり) |
710(和銅3)年、元明天皇は藤原京から奈良盆地北部の平城京に遷都しました。以後、長岡京に遷都するまでの約70年間を奈良時代といいます。
平城京は唐の都長安にならい、東西・南北に走る道路で碁盤の目状に区画される条坊制をもつ都市でした。都は中央を南北に走る朱雀大路(道幅約74m)で東の左京と西の右京に分けられ、北部中央には政治の中心である平城宮が設けられました。
平城宮には天皇の生活の場である内裏、政務や儀礼の場である大極殿・朝堂院、そして各官庁がおかれました。人口は約10万人といわれ、はじめ大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺、のちには東大寺・西大寺などの大寺院が立ち並びました。
708(和銅元)年、武蔵国から銅が献上されると、政府は唐にならい和同開珎を鋳造しました。左京・右京には官営の東市・西市が設けられ、市司がこれを監督しました。市では、地方から貢納された産物や官人に禄として支給された布などが交換されましたが、銭貨の流通は京や畿内に限られ、一般には稲や布が交換手段として広く使われていました。
①唐の長安にならった条坊制の都市
②朱雀大路で左京・右京に分かれ、北部中央に平城宮
③官営の東市・西市を設置(市司が監督)
④和同開珎を鋳造したが流通は京・畿内に限定
律令制のもとで官人は位階を与えられ、位階に対応する官職に任じられました(官位相当制)。位階・官職に応じて封戸・位田・職田などの給与が与えられたほか、調・庸・雑徭などの負担は免除されました。
とくに五位以上の貴族は手厚く優遇され、五位以上の子(三位以上は孫も)は父(祖父)の位階に応じた位階を与えられて出仕できる蔭位の制により、貴族の地位の維持がはかられました。五位以上の位階は一種の身分としての意味をもっていたのです。
律令制は中国にならった実力主義の制度に見えますが、実際には蔭位の制によって五位以上の貴族の子弟は自動的に出仕の道が開かれていました。高い位階の父を持つ者はそれだけで有利な位階をもらえたのです。つまり律令制は表向きは官僚制でありながら、実質的には貴族の世襲的な特権を制度的に保障する仕組みでもありました。この構造が藤原氏の権力独占へとつながっていきます。
内容:五位以上の子(三位以上は孫も)に父祖の位階に応じた位階を与える制度
意義:貴族の地位を世襲的に維持する仕組み。律令制の官僚制的な側面と、貴族社会の身分的な側面が共存していた
律令制のもとでの身分制度は、良民と賤民に大きく分けられました。賤民には官有の陵戸・官戸・公奴婢と、私有の家人・私奴婢の5種類があり、これを五色の賤といいます。賤民の割合は人口の数%程度と低かったものの、大寺院や豪族のなかには数百人をこえる奴婢を所有した者もいました。
官有:陵戸(天皇陵の管理)・官戸・公奴婢
私有:家人・私奴婢
※律令制の身分は良民と賤民に二分される(良賤制)
藤原不比等の死後、皇族の長屋王が左大臣となって政権を握りました。しかし、不比等の4人の子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂、藤原四子と総称)は、729(天平元)年、長屋王とその妻吉備内親王を策謀によって自殺に追い込み(長屋王の変)、不比等の娘の光明子を聖武天皇の皇后に立てることに成功しました。
しかし737(天平9)年、流行した天然痘によって藤原四子は相次いで病死しました。かわって皇族出身の橘諸兄が政権を握ると、唐から帰国した吉備真備や僧玄昉が聖武天皇に信任されて活躍しました。
740(天平12)年、藤原広嗣(宇合の子)が吉備真備・玄昉らの排除を求めて九州で反乱をおこしましたが、鎮圧されました(藤原広嗣の乱)。
この乱ののち、聖武天皇は都を転々と移しました。まず山背の恭仁京に遷都し、ついで難波宮、さらに近江の紫香楽宮へと移り、745(天平17)年にようやく平城京に戻りました。こうした政治情勢や飢饉・疫病などの社会不安のもと、仏教を厚く信仰した聖武天皇は鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとし、741年に国分寺建立の詔を出し、743年には紫香楽宮で大仏造立の詔を発しました。
聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで勢力をのばしました。仲麻呂は淳仁天皇を擁立し、恵美押勝の名を賜って太政大臣にまでのぼりましたが、後ろ盾であった光明皇太后の死後に孤立を深め、764(天平宝字8)年に挙兵するも敗死しました(恵美押勝の乱)。淳仁天皇は廃されて淡路に流され、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となりました。
僧道鏡は称徳天皇の信任を得て太政大臣禅師、さらに法王にまでのぼり、仏教政治を推し進めました。769(神護景雲3)年には、称徳天皇が宇佐八幡宮の神託によって道鏡に皇位をゆずろうとする事件がおこりましたが、和気清麻呂が宇佐に派遣されてこの動きを阻止しました(宇佐八幡宮神託事件)。
称徳天皇が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡は下野薬師寺の別当に追放されました。つぎの皇位には、藤原百川らの推挙で天智天皇の孫である光仁天皇が即位し、律令政治と国家財政の再建を目指しました。
天皇家と藤原氏の姻戚関係を軸に、他の皇族や氏族が権力の座をめぐって争いを繰り返しました。皇位継承に発言力をもつ者が政治を動かす構造が、奈良時代の政変の背景にあります。
①長屋王の変(729年)→ 藤原四子が光明子を皇后に
②藤原四子の病死(737年)→ 橘諸兄が政権を掌握
③藤原広嗣の乱(740年)→ 聖武天皇が恭仁京・紫香楽宮に遷都
④恵美押勝の乱(764年)→ 孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇に
⑤宇佐八幡宮神託事件(769年)→ 和気清麻呂が道鏡の皇位継承を阻止
律令国家では、民衆は戸主を代表者とする戸に所属するかたちで戸籍・計帳に登録されました。戸籍は6年ごとに作成され、それにもとづいて6歳以上の男女に一定額の耕作できる田地(口分田)が班給されました。これを班田収授法といいます。
口分田は売買できず、死者の口分田は6年ごとの班年に収公されました。男性には2段、女性にはその3分の2が支給されるなど、班給面積には差がありました。
民衆にはさまざまな負担が課せられました。
| 税目 | 内容 | 対象 |
|---|---|---|
| 租 | 口分田などの収穫から約3%の稲を納める(田にかかる税) | 田地 |
| 調 | 絹・布や地域の特産品を納める | 正丁(成人男性) |
| 庸 | 歳役(年10日の労役)のかわりに布などを納める | 正丁 |
| 雑徭 | 国司の命令で水利工事や国府の雑用に年間60日を限度に奉仕 | 正丁 |
| 兵役 | 正丁3〜4人に1人の割合で兵士を徴発。衛士・防人などに従事 | 正丁 |
調・庸は正丁(成人男性)を中心に課される人税で、郡司のもとでまとめられ、それらを都まで運ぶ運脚の義務もありました。兵士の武器や食料は自弁が原則であり、民衆にとって大きな負担でした。
このほか、国家が春と夏に稲を貸し付け、秋の収穫時に5割の高利息とともに徴収する出挙(公出挙)もあり、その利息の稲は諸国の重要な財源となりました。
租:田にかかる税(収穫の約3%)。諸国の正倉に蓄えられた
調:正丁に課される人税。絹・布・特産品を都に運搬(運脚)
庸:歳役のかわりに布などを納める人税。調とともに都に運搬
※租は土地にかかる税、調・庸は人にかかる税である点が最重要
地方は国・郡・里に区分され、国には中央から派遣された国司が政治をおこなう拠点として国府(国衙)が設けられました。国府の中心には政務や儀礼をおこなう国庁がありました。国司には中央の官人が一定の任期で派遣されました。
郡には郡家(郡衙)が設けられ、租を蓄える正倉がおかれました。郡司にはもとの国造などの在地の豪族が任命され、任期はなく地位は世襲されました。郡司は多くの田地の保有が認められ、在地で大きな信望と勢力をもっていました。
律令制の民衆支配は、実質的には郡司のもつ伝統的な支配力によって可能になっていました。しかし8世紀を通じて、各郡の正倉に蓄えられた稲穀が正税として国司により一元的に管理・運用されるようになり、郡司の権力の背景が奪われて国司による支配が強まるという変化が進みました。
中央と地方を結ぶ交通制度として、畿内を中心に東海道など七道の駅路が整備され、約16kmごとに駅家を設ける駅制が敷かれました。官人が公用に利用し、地方では駅路と離れて郡家などを結ぶ道(伝路)が交通網を構成しました。
国司:中央から派遣。一定の任期あり。国府で政務
郡司:在地の豪族(旧国造など)が任命。任期なし・世襲。郡家で実務
※律令制の地方支配は、中央から派遣される国司と、在地の伝統的支配力をもつ郡司の二重構造だった
遣隋使につづいて、630年から遣唐使が派遣されました。7世紀後半に一時中断しましたが、8世紀に入ると、ほぼ20年に1度の割合で使節が派遣されました。多い時は約500人もの人々が、4隻の船に分乗して渡海しました。
日本は唐の冊封は受けませんでしたが、実質的には唐に臣従する朝貢外交であり、大使以下の使者は正月の朝賀に参列して皇帝を祝賀しました。
遣唐使に随行した吉備真備や玄昉らの留学生・学問僧は、儒教や仏教、法律など多くの書物と知識を伝え、日本の律令国家としての発展に大きく寄与しました。入唐留学生の阿倍仲麻呂は唐の玄宗皇帝に重用されて高官にのぼり、詩人王維・李白らとも交流しました。
また唐から鑑真が戒律を伝えるために来日し、のちに唐招提寺を開きました。
当時は造船や航海の技術が未熟であるうえ、8世紀半ば以降は新羅との関係悪化から朝鮮半島沿いの北路をとれず、危険な東シナ海を横断する南路をとるようになりました。遣唐使船はしばしば遭難し、命がけの渡航でした。それでも留学生や学問僧が危険をかえりみず海を渡ったのは、唐の先進的な制度や文化を導入する意義がそれほど大きかったからです。
①8世紀には約20年に1度、約500人規模で派遣
②冊封は受けなかったが実質的には朝貢外交
③吉備真備・玄昉ら留学生が律令制度・文化を導入
④鑑真が戒律を伝え、唐招提寺を開いた
班田収授法のもとでは、負担に苦しむ農民が口分田を捨てて逃亡する事態が発生しました。平城京の造営などの労役も逃亡の原因となりました。また人口増加もあって良質な口分田は不足し、耕されずに荒れたままになる田地も増えていきました。
政府は耕地の拡大をはかるため、722(養老6)年には百万町歩の開墾計画を立てましたが成果は上がりませんでした。
723(養老7)年、政府は三世一身法を施行しました。新たに灌漑施設を設けて開墾した場合は3世(子・孫・曾孫)にわたり、旧来の灌漑施設を利用して開墾した場合は本人1代のあいだ、田地の保有を認めるものでした。
しかし、収公の期限が近づくと開墾田がふたたび荒廃するため、743(天平15)年には墾田永年私財法が出されました。これは、身分に応じた一定の範囲内であれば開墾田の私有を永年にわたって保障するというものです。
| 法令 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| 三世一身法 | 723年 | 新規灌漑→3世、既存灌漑→本人1代の保有を認める |
| 墾田永年私財法 | 743年 | 身分に応じた面積の範囲内で開墾田の永年私有を認める |
墾田永年私財法をきっかけに、中央の貴族や大寺院(とくに東大寺など)は地方豪族と結んで大規模な開墾を進め、国司や郡司の協力のもとに付近の農民や浮浪人を使って灌漑施設をつくりました。こうして生まれた私有地を初期荘園といいます。
この結果、公地公民の原則はくずれましたが、墾田は租を納めるべき規定であり、政府の土地支配そのものが否定されたわけではありませんでした。
一見すると公地公民の否定に見えますが、政府の意図は開墾田にまで土地支配を拡大することにありました。墾田にも租は課されたため、政府は土地支配の強化をはかる積極策として打ち出したのです。しかし結果的には、貴族や大寺院の私有地拡大を進めることになりました。
三世一身法(723年):期限付きの保有。新規灌漑で3世、既存灌漑で1代 → 期限前に荒廃
墾田永年私財法(743年):永年の私有を保障。身分に応じた面積制限あり → 初期荘園の成立につながる
律令国家は、東北地方に住む人々を蝦夷、九州南部の人々を隼人と呼び、異民族として服従させ、支配地を拡大していきました。
7世紀半ばには日本海側に渟足柵・磐舟柵が設けられ、斉明天皇の時代には阿倍比羅夫が北方の蝦夷と関係を結びました。
8世紀になると、蝦夷に対する軍事的な制圧政策が本格化します。日本海側には712(和銅5)年に出羽国がおかれ、ついで秋田城が築かれました。太平洋側には多賀城が築かれて陸奥国府となり、東北地方の行政・軍事の拠点として機能しました。
蝦夷政策は、帰順する蝦夷は優遇する一方、従わない蝦夷は武力で制圧するという二面的な政策でした。また城柵には関東を中心とする農民を柵戸として植民させました。
隼人は天武・持統天皇の頃には服属し、8世紀初めには薩摩国ついで大隅国がおかれました。政府に朝貢することが課され、種子島・屋久島も行政区画化されました。
律令国家が蝦夷・隼人を「異民族」として支配した構造は、歴史総合で学ぶ近代の帝国主義における「文明と未開」の論理にも通じます。中華思想にもとづく華夷秩序を日本国内にも適用したものであり、「国家の境界線はどのように決まるのか」を考える素材となります。
平城京の時代は、律令国家が完成し、同時にその矛盾が表面化していく時代です。班田収授法の行き詰まりから墾田永年私財法が出され、公地公民の原則がくずれていくプロセスは、のちの荘園制の発展や律令国家の変容へと直結しています。
710年に平城京へ遷都し、班田収授法と租庸調で民衆を支配する律令国家が完成した。しかし口分田不足から墾田永年私財法が出されて初期荘園が成立し、遣唐使で大陸文化を吸収する一方、公地公民の原則はくずれ始めた。
Q1. 710年、元明天皇が遷都した都を何というか。
Q2. 6年ごとに作成される戸籍にもとづいて、6歳以上の男女に口分田を班給する制度を何というか。
Q3. 租庸調のうち、田地にかかる税はどれか。
Q4. 地方統治で、在地の豪族が任命され任期のない役職を何というか。
Q5. 743年、開墾田の永年私有を認めた法令を何というか。
Q6. 東北地方の蝦夷支配の拠点として築かれ、陸奥国府がおかれた城柵を何というか。
租庸調について、それぞれの課税対象と内容を説明せよ。
租:田地にかかる税で、収穫の約3%の稲を納める。諸国の正倉に蓄えられた。
調:正丁(成人男性)にかかる人税で、絹・布や地域の特産品を都に運搬した。
庸:正丁にかかる人税で、歳役(年10日の労役)のかわりに布などを都に納めた。
最大のポイントは、租が「田にかかる税」であるのに対し、調・庸は「人にかかる税」という違いです。調・庸は都まで運ぶ義務(運脚)がともない、これも農民の大きな負担でした。この租庸調の仕組みは唐の制度にならったものですが、日本では出挙(公出挙)という独自の財源もあわせて運用されていました。
三世一身法と墾田永年私財法を比較し、墾田永年私財法が出された背景と結果を述べよ。
三世一身法(723年)は開墾田の保有を期限付き(新規灌漑で3世、既存灌漑で本人1代)で認めたが、収公の期限が近づくと再び荒廃した。
そこで墾田永年私財法(743年)が出され、身分に応じた面積の範囲内で開墾田の永年私有が認められた。
結果として、中央の貴族や大寺院が大規模な開墾を進め、初期荘園が成立した。公地公民の原則はくずれたが、墾田にも租は課されたため、政府の土地支配が直ちに否定されたわけではなかった。
国司と郡司の違いを述べたうえで、8世紀を通じて両者の関係がどのように変化したかを説明せよ。
国司は中央から派遣された官人で任期があり、国府で政務をおこなった。郡司は在地の豪族(旧国造など)が任命され、任期はなく世襲された。
律令制の民衆支配は、当初は郡司のもつ伝統的な支配力によって実現されていた。しかし8世紀を通じて、各郡の正倉に蓄えられた稲穀が正税として国司により一元的に管理・運用されるようになり、郡司の権力の基盤が弱まって国司による支配が強まった。
律令制の地方支配は中央派遣の国司と在地豪族の郡司による二重構造でした。当初は郡司の伝統的な支配力に依存していましたが、正税の国司管理への移行によって力関係が変化しました。これがのちの受領制の成立(国司の権限強化)へとつながっていきます。