第3章 律令国家の形成

律令国家への道
─ 白村江から大宝律令へ

大化改新のあと、東アジアの国際情勢は一層緊迫しました。660年に唐・新羅連合軍が百済を滅ぼすと、倭は百済救援のために大軍を送りますが、白村江の戦いで大敗します。
この敗北を契機に、天智天皇は防衛体制の整備と国内改革を進め、壬申の乱を経て即位した天武天皇のもとで中央集権国家の形成が加速しました。
藤原京の造営、飛鳥浄御原令の施行、そして大宝律令の完成へ ── 律令国家が完成するまでの道のりを追っていきましょう。

📖 山川 詳説日本史 pp.37-40 📖 東京書籍 日本史探究 pp.24-64

1時代の見取り図 ─ いつ・何が起きたのか

律令国家の形成

白村江と防衛
天智天皇
壬申の乱
天武・持統天皇
大宝律令
660668672689701
おもなできごと
660年唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗
664年対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を設置。水城・大野城を築造
667年都を近江大津宮に移す
668年中大兄皇子が即位(天智天皇)
670年最初の全国的戸籍(庚午年籍)を作成
672年壬申の乱 → 大海人皇子が勝利
673年天武天皇が飛鳥浄御原宮で即位
684年八色の姓を制定
689年飛鳥浄御原令を施行
694年藤原京に遷都
701年大宝律令が完成

2白村江の戦い ─ 東アジアの激動と敗北

百済の滅亡と倭の参戦

唐と新羅が同盟を結んで660年に百済を滅ぼすと、百済の遺臣たちは日本に滞在していた百済王子の送還と援軍を要請しました。 孝徳天皇の死後、飛鳥で即位した斉明天皇(中大兄皇子の母)は、百済を支援するために大軍を派遣しました。

白村江の戦い(663年)

しかし663年、朝鮮半島の白村江の戦いで、倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗しました。さらに668年には唐と新羅が高句麗も滅ぼし、やがて新羅が唐の勢力を追い出して朝鮮半島を統一しました。

白村江での敗戦は、倭にとって大きな衝撃でした。唐・新羅の日本列島への侵攻が現実的な脅威となり、国防と国内体制の整備が急務となったのです。

ここが問われる: 白村江の戦いの経緯と影響 因果

経緯:唐・新羅が百済を滅亡(660年)→ 倭が百済支援のため出兵 → 663年白村江で大敗
影響:①国防体制の整備(防人・烽・水城・山城)②中大兄皇子による中央集権化の加速 ③朝鮮半島の権益を完全に喪失

3天智天皇の国防と改革

防衛体制の構築

白村江の敗戦を受けて、倭では防衛体制の整備が急ピッチで進められました。664年には対馬・壱岐・筑紫に防人(のろし台)が設置されました。

また、百済からの亡命貴族の指導のもと、九州北部の要地を守る水城大野城・基肄城が築かれ、対馬から大和にかけて古代山城(朝鮮式山城)が各地に築かれました。

近江大津宮と天智天皇の即位

中大兄皇子は667年に都を飛鳥から近江大津宮に移し、翌668年に7年間の称制を経て即位しました(天智天皇)。

天智天皇は国内政策でも改革を進め、664年には氏上を定めて豪族の領有民を確認するなど諸豪族との融和をはかりました。670年には最初の全国的な戸籍である庚午年籍を作成し、人民の把握に努めました。後世、はじめての法典である近江令が定められたといわれますが、編纂された法典ではなく、律令制へつながる個別の法令を指したものとみられています。

白村江の敗戦はなぜ国内改革を加速させたのか

白村江の敗戦は、唐・新羅の軍事力が圧倒的に強いことを痛感させました。侵攻に備えるためには、豪族連合的な体制では不十分です。唐のような中央集権的な国家体制を急いで整備し、国全体として軍事力を動員できる仕組みをつくる必要がありました。つまり、外からの軍事的脅威が、内なる国家改革の最大の推進力になったのです。

ここが問われる: 天智天皇期の防衛と改革 整理

防衛:防人・烽(664年)、水城・大野城・基肄城、朝鮮式山城を対馬から大和にかけて築造
内政:近江大津宮への遷都(667年)、庚午年籍の作成(670年)、近江令の制定

4壬申の乱 ─ 天武天皇の誕生

皇位継承をめぐる対立

天智天皇が亡くなると、翌672年に皇位継承をめぐる大きな戦いが勃発しました。天智天皇の子で近江大津宮の朝廷を率いる大友皇子と、天智天皇の弟大海人皇子との間で、古代最大の内乱が起きたのです。

壬申の乱(672年)

大海人皇子は吉野から東国の美濃に移り、東国豪族たちの軍事動員に成功して大友皇子を倒しました(壬申の乱)。翌673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位しました(天武天皇)。

乱の結果、近江朝廷側についた有力な中央豪族が没落し、強大な権力を手にした天武天皇を中心に中央集権国家の形成が一気に加速しました。

壬申の乱の勝利はなぜ天武天皇の権力を強めたのか

壬申の乱では、有力な中央豪族の多くが近江朝廷(大友皇子)側につきました。大海人皇子がこれを武力で倒したことにより、旧来の有力豪族が没落し、天武天皇には対抗勢力がいなくなりました。白紙の状態から豪族を再編成できたからこそ、八色の姓の制定や律令の編纂など、大胆な改革を断行できたのです。

ここが問われる: 壬申の乱の対立構造と結果 因果

対立:大友皇子(近江朝廷+有力中央豪族)vs 大海人皇子(東国豪族)
結果:①大海人皇子が勝利し天武天皇として即位 ②近江朝廷側の有力豪族が没落 ③天武天皇が強大な権力を掌握 → 中央集権国家の形成が加速

5天武天皇の国家建設 ─ 八色の姓と律令編纂

豪族の再編成

天武天皇は、675年に豪族が所有していた部曲を廃止し、官人の位階や昇進の制度を定めて官僚制の形成を進めました。

684年には八色の姓を制定し、豪族たちを天皇を中心とした新しい身分秩序に再編成しました。従来の臣・連・君・直などの姓にかわり、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8つの姓が定められ、天皇を頂点とする序列が明確になりました。

国家体制の整備

天武天皇は、地方ではの制度を整え、(60戸)を編成するなど国家体制の充実をはかりました。さらに律令国史の編纂、都城の建設、貨幣の鋳造(富本銭)にも着手しました。

それまでの大王にかわって「天皇」という称号が用いられるようになったのもこの頃とされ、天皇の神格化が進みました。また、壬申の乱の際に勝利を祈願した伊勢の神が国家的な祭祀の対象となり、伊勢神宮の地位が高められました。

発展:「天皇」号の成立時期

「天皇」という称号がいつから使われ始めたかについては、天武天皇の頃とする説と、推古天皇の頃に隋との外交交渉の中でつくられたとする説があります。天武天皇の時代に「大王は神にしませば」と柿本人麻呂がうたったように天皇の神格化が進んだことから、前者の説が有力視されることが多いですが、決着はついていません。

ここが問われる: 天武天皇の政策 整理

部曲の廃止(675年):豪族の私有民を廃止
八色の姓(684年):天皇中心の新しい身分秩序に豪族を再編成
律令・国史の編纂に着手
富本銭の鋳造、都城の建設に着手
⑤「天皇」号の使用、伊勢神宮の地位向上

6藤原京と律令の完成 ─ 持統天皇から大宝律令へ

持統天皇と飛鳥浄御原令

天武天皇のあとを継いだ皇后の持統天皇は、689年飛鳥浄御原令を施行しました。翌690年にはこれにもとづく戸籍である庚寅年籍を作成し、人民の統一的な把握に努めました。庚寅年籍は以後6年ごとに戸籍をつくる制度の基礎となりました。

藤原京への遷都

694年、持統天皇は中国の都城を模した藤原京に遷都しました。藤原京は、天皇の住居や官衙・儀式をおこなう空間からなる宮と、条坊制をもつ京の部分からなり、有力な王族や豪族たちを住まわせました。官僚制の成立と都城は不可分のものだったのです。

大宝律令の完成(701年)

701年(大宝元年)、刑部親王や藤原不比等らによって大宝律令が完成し、律令国家の仕組みが整いました。大宝律令は唐の永徽律令を手本にしたもので、刑法にあたるは唐律をほぼ模写しましたが、行政法や民衆の統治を定めたは日本の実情に合うように大幅に改変されています。

日本」という国号が正式に定められたのもこの頃のことで、702年に約30年ぶりに派遣された遣唐使が唐に対して「日本」の使者であると伝え、倭の国名を改めました。

ここが問われる: 律令国家完成への3段階 変化

第1段階:飛鳥浄御原令の施行(689年)+ 庚寅年籍の作成(690年)
第2段階:藤原京への遷都(694年)── 条坊制をもつ最初の都城
第3段階:大宝律令の完成(701年)── 律令国家の仕組みが整う。「日本」国号の確定

7律令国家の統治組織 ─ 二官八省

中央の行政組織

律令国家の中央行政組織には、神々の祭祀をつかさどる神祇官と、行政全般を統轄する太政官二官が置かれました。太政官のもとで八省が政務を分担する仕組みです。

組織役割
神祇官神々の祭祀をつかさどる。太政官と並立する独立機関
太政官行政全般を統轄。太政大臣・左大臣・右大臣・大納言らの公卿による合議で運営
八省太政官のもとで政務を分担(中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省)

地方の行政組織

全国は畿内(大和・河内・摂津・山背、のちに和泉)と七道に区分され、(のち郷)が置かれました。国司には中央から貴族が派遣され、郡司にはかつての国造など伝統的な地方豪族が任じられました。

京には左・右京職、難波には摂津職、外交・軍事上の要地である九州北部には西海道を統轄する大宰府が置かれました。

ここが問われる: 二官八省の仕組み 内容・特徴

神祇官(祭祀)と太政官(行政)の二官体制
②太政官は公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・大納言)による合議制で運営
③太政官のもとに八省が政務を分担
④地方は国・郡・里に区分。国司は中央から派遣、郡司は地方豪族

歴史総合とのつながり

律令国家の建設は、強大な隣国(唐)の脅威に対応するため、その隣国の制度を学んで国内体制を急速に整備するという構図です。これは歴史総合で学ぶ近代の明治維新──西洋列強の脅威に対応して西洋の制度を取り入れた近代化──と共通するテーマです。

8この記事のつながり

この記事では、大化改新後から大宝律令の完成までの約半世紀を扱いました。白村江の敗戦という外圧が改革を加速させ、壬申の乱が天武天皇に強大な権力を与え、律令国家が完成していく過程です。

  • ← 2-2 飛鳥の朝廷:大化改新で始まった中央集権化の動きが、白村江の敗戦を契機にさらに加速した
  • → 3-2 平城京の時代:大宝律令のもとで整備された班田収授法・租庸調の税制・官僚制の具体的な内容へ
  • 八色の姓 ← 氏姓制度:氏姓制度を天皇中心の新秩序に再編成したもの。律令制の身分秩序の基盤となった
  • 藤原京 → 平城京:藤原京で確立した条坊制の都城は、710年の平城京遷都に引き継がれる

9まとめ

  • 663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。防人水城大野城などの防衛体制を整備
  • 天智天皇は近江大津宮に遷都し、庚午年籍(670年)を作成して人民を把握
  • 672年壬申の乱で大海人皇子が大友皇子を倒し、天武天皇として即位
  • 天武天皇は八色の姓(684年)で豪族を再編成し、部曲の廃止・律令編纂・国史編纂に着手
  • 持統天皇飛鳥浄御原令(689年)を施行し、藤原京(694年)に遷都
  • 701年大宝律令が完成し、二官八省の中央行政組織と国・郡・里の地方組織が整った
  • 日本」の国号が正式に定められたのもこの頃
この章を100字で要約すると

白村江の敗戦を機に防衛と改革が加速し、壬申の乱を経て天武天皇が強大な権力を掌握した。八色の姓で豪族を再編し、持統天皇が飛鳥浄御原令を施行して藤原京に遷都、701年の大宝律令で律令国家が完成した。

10穴埋め・一問一答

Q1. 663年、倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗した戦いを何というか。

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白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)。この敗戦を契機に国防体制と国内改革が加速した。

Q2. 670年に天智天皇が作成した、最初の全国的な戸籍を何というか。

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庚午年籍(こうごねんじゃく)。人民を把握するための最初の全国的な戸籍。

Q3. 672年、大海人皇子が大友皇子を倒して皇位についた内乱を何というか。

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壬申の乱(じんしんのらん)。大海人皇子は翌年、天武天皇として即位した。

Q4. 684年に天武天皇が制定した、天皇中心の新しい身分秩序を定めた制度を何というか。

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八色の姓(やくさのかばね)。真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8つ。

Q5. 694年に持統天皇が遷都した、条坊制をもつ最初の本格的都城を何というか。

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藤原京(ふじわらきょう)。中国の都城を模し、宮と条坊制の京からなる。

Q6. 701年に完成した、律令国家の基本法典を何というか。

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大宝律令(たいほうりつりょう)。刑部親王・藤原不比等らが編纂。唐の永徽律令を手本とした。

11アウトプット演習

問1 A 基礎 因果

白村江の戦いの敗北が、倭の国内政策にどのような影響を与えたか述べよ。

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解答

白村江の敗戦により唐・新羅の侵攻が現実的な脅威となったため、防人・烽の設置や水城・大野城などの朝鮮式山城の築造で防衛体制が整備された。さらに、唐のような中央集権体制を急いで整備する必要性が高まり、天智天皇による近江大津宮への遷都や庚午年籍の作成など、国内の中央集権化が加速した。

問2 A 基礎 内容・特徴

天武天皇が進めた主要な政策を4つ挙げ、それぞれの内容を述べよ。

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解答

①部曲の廃止(675年):豪族が私有していた民を廃止し、天皇のもとでの一元的な人民支配を進めた
②八色の姓の制定(684年):従来の姓にかわる新しい8種の姓を定め、天皇を中心とした身分秩序に豪族を再編成した
③律令・国史の編纂に着手:中国を手本とした法典の整備と、国家の正史の編纂を開始した
④富本銭の鋳造と都城建設に着手:貨幣を鋳造し、本格的な都城の造営を進めた

問3 B 標準 変化

大化改新から大宝律令の完成まで、律令国家の形成はどのような段階を経て進んだか。国際情勢との関連も含めて述べよ。(4要素)

クリックして解答・解説を表示
解答(4要素)

①大化改新(645年)で公地公民制を目指す改革が始まったが、この段階では改革は緒についたばかりだった
②白村江の敗戦(663年)により唐・新羅の脅威が現実化し、天智天皇のもとで防衛体制の整備と庚午年籍の作成が進められた
③壬申の乱(672年)で天武天皇が強大な権力を掌握し、八色の姓の制定・部曲の廃止・律令編纂など本格的な中央集権国家の建設が始まった
④持統天皇が飛鳥浄御原令を施行し藤原京に遷都、701年の大宝律令で二官八省の中央組織と国・郡・里の地方組織が整い、律令国家が完成した

解説

律令国家の形成は、大化改新・白村江の敗戦・壬申の乱・大宝律令という4つの画期を経て段階的に進みました。共通するのは、東アジアの国際的な緊張(唐の強大化・白村江の敗戦)が国内改革を加速させた点です。外圧が改革の推進力となるという構図は、飛鳥時代を通じて一貫しています。