第6章 武家社会の形成

鎌倉幕府の成立
─ 武家政権の誕生

平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉を拠点に日本初の武家政権を築きました。
「御恩と奉公」で結ばれた将軍と御家人の関係、守護・地頭による全国支配、そして承久の乱を経て確立する執権政治──。
貴族社会から武家社会への大転換を追っていきましょう。

1時代の見取り図 ─ いつ・何が起きたのか

鎌倉幕府の成立と展開

源平争乱
頼朝期
承久の乱
執権政治
11801185122112321333
おもなできごと
1180年以仁王の令旨 → 源頼朝が挙兵。鎌倉に本拠を構え侍所を設置
1183年寿永二年十月宣旨(東国支配権の承認)
1184年公文所(のち政所)・問注所を設置
1185年壇の浦の戦いで平氏滅亡。守護・地頭の設置権を獲得
1189年奥州藤原氏を滅ぼし東北を平定
1192年頼朝が征夷大将軍に任命される
1199年頼朝死去。13人の合議制へ
1221年承久の乱 → 六波羅探題の設置
1232年御成敗式目(貞永式目)の制定

2源平の争乱と平氏の滅亡

平氏政権への反発

平清盛は武士として初めて太政大臣にまで昇りましたが、その権力基盤は貴族的なものでした。 娘の徳子を天皇の后とし、その子を安徳天皇として即位させて外戚となる一方、1179年には後白河法皇を幽閉するなど強引な政治をおこない、貴族・寺社・武士の反発を招きました。

治承・寿永の乱(源平合戦)

1180年、後白河法皇の皇子以仁王源頼政が平氏打倒の兵をあげ、諸国の武士に挙兵を呼びかける令旨を発しました。 これを受けて、伊豆の源頼朝、信濃の源義仲をはじめ、各地の武士団が次々と挙兵します。

富士川の戦いで平氏軍を退けた頼朝は、すぐに京都に向かわず、まず関東の平定を優先しました。鎌倉に本拠を構え、侍所を設けて東国武士を組織したのです。 一方、義仲は平氏を西国に追い落としますが京都で統治に失敗し、頼朝が派遣した源範頼源義経によって滅ぼされます。

範頼・義経は一の谷、屋島を経て、1185年(文治元年)壇の浦の戦いで平氏を滅亡させました。

頼朝はなぜ京都に向かわず鎌倉にとどまったのか

頼朝は平氏打倒の前に、まず自分の支配基盤を固めることを優先しました。京都に入れば朝廷の政治に巻き込まれ、平清盛と同じように貴族的な権力者になりかねません。鎌倉という朝廷から離れた場所に拠点を置くことで、武士を直接組織する独自の政権をつくることができたのです。この判断が「武家政権」という新しい政治体制を生むことになりました。

3鎌倉幕府の仕組み ─ 御恩と奉公

幕府はいつ成立したのか

鎌倉幕府の成立時期については、複数の画期が存在し、研究者の間でも意見が分かれています。 「いつ成立したか」は、幕府の本質を何と捉えるかによって変わるのです。

できごと注目する観点
1180年鎌倉に本拠を構え、侍所を設置軍事力による実力支配の開始
1183年寿永二年十月宣旨東国支配権の朝廷による承認
1185年守護・地頭の設置権を獲得全国的な軍事・行政権の確立
1192年征夷大将軍に任命武家の棟梁としての官職の取得

現在では1185年の守護・地頭設置を最も重要な画期とする見方が有力ですが、一つの時点で「完成」したわけではなく、段階的に形成されたと理解するのが適切です。

中央の機関

機関役割初代長官
侍所御家人の統制・軍事和田義盛(別当)
政所(初め公文所)一般政務・財政大江広元(別当)
問注所裁判事務三善康信

地方の機関 ─ 守護と地頭

守護は原則として各国に1人ずつ、東国出身の有力御家人が任命されました。 その任務は大犯三カ条(京都大番役の催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕)など、軍事・治安維持が中心でした。

地頭は御家人から任命され、荘園や公領の年貢徴収・土地管理・治安維持にあたりました。 地頭の設置は荘園領主の支配と重なるため、やがて荘園領主との間で激しい対立が生じていきます。

御恩と奉公 ─ 封建制度の成立

鎌倉幕府の根幹は、将軍と御家人を結ぶ御恩と奉公の関係です。

内容
御恩(将軍→御家人)本領安堵(先祖伝来の所領の支配を保障)、新恩給与(戦功に応じて新たな所領を与える)
奉公(御家人→将軍)戦時の軍役、平時の京都大番役鎌倉番役などの警備

土地の給与を通じて主人と従者が御恩と奉公で結ばれるこの制度を封建制度といいます。鎌倉幕府は封建制度にもとづく最初の政権であり、守護・地頭の設置によって日本の封建制度が国家的制度として成立しました。

ここが問われる: 守護と地頭の違い 比較

守護:各国に1人。軍事指揮官。大犯三カ条(京都大番役の催促、謀反人・殺害人の逮捕)が任務
地頭:荘園・公領ごとに設置。年貢徴収・土地管理・治安維持が任務。荘園領主との対立の原因に

ここが問われる: 平氏政権と鎌倉幕府の違い 比較

平氏政権:朝廷の官職(太政大臣等)を通じた支配。京都を拠点。外戚関係による権力維持
鎌倉幕府:御恩と奉公で御家人を組織。鎌倉を拠点。守護・地頭による全国的な軍事支配

ここが問われる: 鎌倉幕府の特徴 内容・特徴

①封建制度(御恩と奉公)にもとづく日本初の武家政権
②朝廷から独立した統治機構(侍所・政所・問注所)を持つ
③守護・地頭により全国的な支配を実現
④ただし朝廷の支配も並存する公武二元支配であった

4承久の乱 ─ 朝廷と幕府の力関係が逆転する

1199年に頼朝が死去すると、嫡子の頼家が2代将軍となりますが、有力御家人13人による合議制で政治が運営されるようになりました。 頼朝の妻北条政子の父北条時政は、頼家を廃して弟の実朝を将軍に立て、みずから政治の実権を握ります。この地位が執権と呼ばれるようになりました。

1219年、3代将軍実朝が頼家の子公暁に暗殺されると、源氏の将軍は3代で途絶え、朝幕関係は不安定になります。

承久の乱(1221年)

この機に乗じて、後鳥羽上皇が2代執権北条義時追討の院宣を出しました(承久の乱)。 しかし東国武士の大多数は、北条政子の「頼朝の御恩を忘れるな」という呼びかけに応じて幕府側に結集しました。 北条泰時・時房らが率いる幕府軍はわずか1カ月で京都を制圧し、幕府の圧倒的勝利に終わりました。

なぜ御家人たちは上皇ではなく幕府を選んだのか

御家人にとって、自分の所領を保障してくれる存在は幕府でした。上皇が勝てば、所領を失うかもしれない。政子の演説は、この「御恩と奉公」という具体的な利害関係に訴えたからこそ効果的だったのです。承久の乱は、封建的主従関係が天皇の権威をも上回るほど強固になっていたことを示す出来事でした。

乱後の処置

  • 後鳥羽上皇隠岐に配流。土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡に
  • 上皇方の貴族・武士の所領約3000カ所を没収し、戦功のあった御家人を新補地頭に任命
  • 京都に六波羅探題を設置(朝廷の監視、西国の御家人の統轄)

承久の乱の結果、幕府の支配は畿内・西国にも及び、朝廷に対する幕府の優位が確定しました。

ここが問われる: 承久の乱が日本の政治にもたらした影響 結果・影響

①朝廷に対する幕府の優位が確定した
②上皇方の所領約3000カ所が没収され、御家人が新補地頭として西国にも配置された
③六波羅探題が設置され、朝廷の監視と西国統轄の体制が整った
④封建的主従関係(御恩と奉公)の強固さが証明された

歴史総合とのつながり

承久の乱は「権力の正統性はどこにあるか」という問題を提起します。天皇の権威と武力による実力支配──この二つの正統性の対立は、歴史総合で学ぶ近代の市民革命(フランス革命など)における「王権神授説」と「人民主権」の対立にも通じるテーマです。

5執権政治の確立 ─ 北条氏と御成敗式目

執権政治の展開

承久の乱後、3代執権北条泰時は幕府政治の制度化を進めました。 執権を補佐する連署を設け、評定衆十余名を選んで合議制による政治・裁判をおこないました。

執権おもな業績
北条時政(初代)頼家を廃して実朝を擁立、執権の地位を確立
北条義時(2代)承久の乱に勝利。侍所・政所の別当を兼務し権力を掌握
北条泰時(3代)連署・評定衆を設置。御成敗式目を制定。合議制を確立
北条時頼(5代)引付衆を設置(訴訟の迅速化)。北条氏の独裁的性格を強化

御成敗式目(貞永式目)

1232年(貞永元年)、北条泰時は御成敗式目貞永式目51カ条を制定しました。 頼朝以来の先例と、「道理」と呼ばれる武士社会の慣習・道徳にもとづくもので、守護・地頭の任務と権限を定め、御家人間の紛争を公平に裁く基準を明確にしました。

御成敗式目は武家独自の最初の整った法典です。 ただし、幕府の勢力範囲のみに適用され、朝廷の支配下では公家法が、荘園領主のもとでは本所法がそれぞれ効力を持っていました。

発展:なぜ御成敗式目は後世にも影響を与えたのか

御成敗式目は、客観的な法典にもとづく裁判という原則を武家社会に確立しました。泰時が「道理」──すなわち社会の常識的な正しさ──を法の基準としたことで、御家人から広く支持を得ました。この法典はのちの室町幕府にも引き継がれ、戦国大名の分国法にも影響を与えています。法による支配という考え方が日本の統治に根づく出発点となった法典です。

ここが問われる: 御成敗式目の特徴 内容・特徴

①武家独自の最初の整った法典(51カ条)
②頼朝以来の先例と武士社会の慣習(道理)にもとづく
③守護・地頭の任務と権限を明確化
④幕府の勢力範囲のみに適用(公家法・本所法と並立)

ここが問われる: 頼朝期から泰時期への政治体制の変化 変化

①頼朝期:将軍による独裁的な支配
②頼朝死後:有力御家人13人の合議制
③北条泰時期:執権・連署・評定衆による合議制の制度化
④北条時頼期:引付衆の設置による訴訟の迅速化。北条氏の独裁色が強化

6この記事のつながり

鎌倉幕府の成立は、日本史上初めて武士が政治の主導権を握った画期的な転換点です。御恩と奉公で結ばれた封建制度は、室町・戦国・江戸と約700年にわたって日本社会の骨格となっていきます。

  • ← 2-5 院政と平氏政権:平氏政権は貴族的な権力構造だったが、鎌倉幕府は武士独自の統治機構をつくった点で質的に異なる
  • → 3-2 蒙古襲来と幕府の衰退:元寇での「新恩給与の不足」が御恩と奉公の関係を揺るがし、幕府衰退の原因となる
  • 御成敗式目 → 室町幕府・戦国大名の分国法:武家法の伝統は御成敗式目から始まり、後世に引き継がれていく
  • 公武二元支配 → 建武の新政・室町幕府:朝廷と幕府の関係は、中世を通じて変化し続けるテーマ

7まとめ

  • 1180年、源頼朝が挙兵し、鎌倉を拠点に武士政権の基盤を築いた
  • 1185年、壇の浦の戦いで平氏が滅亡。頼朝は守護・地頭の設置権を獲得した
  • 幕府の中央機関は侍所政所問注所の三つ
  • 将軍と御家人は御恩と奉公(本領安堵・新恩給与 ⇔ 軍役・番役)で結ばれた = 封建制度
  • 1221年承久の乱で幕府が朝廷に勝利 → 幕府の優位が確定。六波羅探題を設置
  • 3代執権北条泰時連署評定衆を設け、合議制の執権政治を確立
  • 1232年御成敗式目(貞永式目)51カ条を制定 → 武家独自の最初の法典
この章を100字で要約すると

源頼朝は鎌倉に武家政権を樹立し、御恩と奉公の封建制度と守護・地頭による全国支配を確立した。承久の乱で朝廷に勝利して幕府の優位を決定づけ、北条泰時が御成敗式目を制定し執権政治を完成させた。

8穴埋め・一問一答

Q1. 1185年、源義経らが平氏を滅ぼした戦いを何というか。

クリックして答えを表示
壇の浦の戦い。山口県下関市の海峡で行われた海戦。

Q2. 鎌倉幕府で御家人の統制・軍事を担当した機関を何というか。

クリックして答えを表示
侍所(さむらいどころ)。初代長官(別当)は和田義盛。

Q3. 将軍が御家人の先祖伝来の所領の支配を保障することを何というか。

クリックして答えを表示
本領安堵(ほんりょうあんど)。御恩の基本的な形。

Q4. 1221年、(  )上皇が北条義時追討の院宣を出した事件を(  )の乱という。

クリックして答えを表示
後鳥羽上皇 / 承久の乱。幕府軍がわずか1カ月で勝利した。

Q5. 承久の乱後、朝廷を監視するために京都に設置された機関を何というか。

クリックして答えを表示
六波羅探題(ろくはらたんだい)。北条氏一門が任命された。

Q6. 1232年、北条泰時が制定した武家独自の最初の法典を何というか。

クリックして答えを表示
御成敗式目(ごせいばいしきもく)。貞永式目とも。51カ条。

9アウトプット演習

問1 A 基礎 比較

平氏政権と鎌倉幕府を、以下の3つの観点から比較せよ。
(1)拠点 (2)権力基盤 (3)全国支配の方法

クリックして解答・解説を表示
解答

(1)平氏:京都 / 鎌倉幕府:鎌倉
(2)平氏:朝廷の官職(太政大臣等)と外戚関係 / 鎌倉幕府:御恩と奉公による御家人の組織
(3)平氏:知行国・荘園による経済的支配 / 鎌倉幕府:守護・地頭の設置による軍事的・行政的支配

問2 A 基礎 結果・影響

承久の乱が日本の政治に与えた影響を述べよ。(4要素)

クリックして解答・解説を表示
解答(4要素)

①朝廷に対する幕府の優位が確定した
②上皇方の所領約3000カ所が没収され、御家人が新補地頭として西国にも配置された
③六波羅探題が設置され、朝廷の監視と西国統轄の体制が整った
④封建的主従関係(御恩と奉公)が天皇の権威をも上回る強固なものであることが証明された

問3 B 標準 内容・特徴

御成敗式目の特徴を述べよ。(4要素)

クリックして解答・解説を表示
解答(4要素)

①武家独自の最初の整った法典(51カ条)
②頼朝以来の先例と武士社会の慣習(道理)にもとづく
③守護・地頭の任務と権限を明確化した
④幕府の勢力範囲のみに適用され、公家法・本所法と並立した

解説

御成敗式目のポイントは「道理」という概念です。律令のような大陸の法体系ではなく、武士社会の中で育まれた慣習と常識を法典化したもので、だからこそ御家人から広く支持されました。泰時は公家法を否定したのではなく、武家社会に適した独自の法を整備したのです。