6世紀末、東アジアの国際情勢が大きく変化するなか、倭では蘇我氏が台頭し、推古天皇・厩戸王のもとで中央集権的な国家形成が始まりました。
冠位十二階や憲法十七条、遣隋使の派遣など、中国を意識した国政改革が進められ、飛鳥文化が花開きます。
やがて乙巳の変を経て大化改新へ ── 律令国家への道筋を追っていきましょう。
| 年 | おもなできごと |
|---|---|
| 587年 | 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす → 蘇我氏の権力確立 |
| 589年 | 中国で隋が南北朝を統一 → 東アジアの緊張が高まる |
| 592年 | 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺。推古天皇が即位 |
| 593年 | 厩戸王(聖徳太子)が推古天皇の甥として国政に参画 |
| 603年 | 冠位十二階を制定 |
| 604年 | 憲法十七条を制定 |
| 607年 | 小野妹子を遣隋使として派遣 |
| 630年 | 犬上御田鍬らを遣唐使として派遣(第1回) |
| 645年 | 乙巳の変。蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし大化改新に着手 |
6世紀後半、ヤマト政権内部では物部氏と蘇我氏の対立が激化しました。渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、仏教の受容を積極的に推進する蘇我氏に対し、物部氏は伝統的な信仰を重んじる立場をとりました。
587年、蘇我馬子は大連の物部守屋を滅ぼして権力を確立しました。さらに592年には崇峻天皇を暗殺して政治権力を掌握し、敏達天皇の后であった推古天皇が即位しました。
589年に中国では隋が南北朝を統一し、高句麗などの周辺地域に進出しはじめると、東アジアは緊張の時代を迎えました。朝鮮半島では、高句麗に圧迫された百済や、勢力を伸ばす新羅が半島南部の加耶諸国に進出し、562年までに加耶諸国は百済・新羅の支配下に入りました。
加耶諸国と結びつきのあったヤマト政権の朝鮮半島での影響力は大きく後退し、こうした厳しい国際情勢のもとで、大王を中心とする中央集権的な国家形成が急務となったのです。
蘇我氏:渡来人と結んで財政権を掌握。仏教の受容に積極的。大臣として政権の中枢を担う
物部氏:軍事・神事を担当する大連。伝統的な信仰を重んじ、仏教の受容に消極的
587年に物部氏が滅亡し、蘇我氏の権力が確立した
推古天皇(在位592〜628年)のもとで、甥の厩戸王(聖徳太子)と大臣蘇我馬子が協力して国家組織の形成を進めました。国際的な緊張を背景に、中国を手本とした中央集権的な国家づくりが始まったのです。
603年に制定された冠位十二階は、従来の氏姓制度のように氏族単位で世襲される姓とは異なり、個人の才能・功績に対して冠位を与える制度でした。これにより、氏族の枠を超えた人材登用が可能になり、王権の組織を再編成しようとするものでした。
翌604年には憲法十七条が定められました。これは豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるとともに、仏教を新しい政治理念として重んじるものでした。天皇を君主とする国家での秩序を確立するために、豪族たちが守るべき心がまえを説いたのです。
従来の氏姓制度では、姓(カバネ)は氏族ごとに世襲されました。冠位十二階は、これとは異なり個人の才能に応じて授けられ、昇進も可能でした。つまり、氏族の身分ではなく能力で評価される仕組みへの第一歩であり、のちの律令制の官僚制度の先駆けとなったのです。ただし、この段階では地方豪族は対象とされず、中央の豪族に限定されていました。
冠位十二階(603年):氏族単位の世襲ではなく、個人の才能・功績に応じて冠位を授ける。王権組織の再編成が目的
憲法十七条(604年):豪族に官僚としての自覚を求める。仏教を政治理念として重んじる。天皇を中心とする国家秩序の確立が目的
王権のもとに中央行政機構・地方組織の編成が進められるなか、中国との外交も遣隋使の派遣により再開されました。600年の最初の派遣に続き、607年に小野妹子が遣隋使として中国に渡りました。
この時の隋への国書は、5世紀の倭の五王時代とは異なり、中国皇帝に臣属しない形式をとっていました。隋の皇帝はこれを無礼としましたが、隋の対高句麗政策の影響もあって外交関係の断絶にはいたりませんでした。
618年に隋が滅んで唐がおこると、倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして遣唐使を派遣し、東アジアの新しい動向に応じて中央集権体制の確立を目指しました。遣隋使に同行した高向玄理・南淵請安・僧旻らの留学生・学問僧は、長期の滞在ののち中国の制度・思想・文化についての新知識を伝えて、7世紀半ば以降の政治に大きな影響を与えました。
5世紀の倭の五王は中国皇帝に臣属する形式で朝貢し、称号を求めました。しかし607年の遣隋使は対等な形式の国書を持参しました。この変化は、推古朝が中国の冊封体制から離脱し、東アジアの中で独立した国家として自らを位置づけようとしたことを示しています。国内では冠位十二階や憲法十七条による国家体制の整備が進んでおり、中国に臣属する必要がなくなったという自信の表れでもありました。
倭の五王(5世紀):中国皇帝に臣属する形式で朝貢。称号を求めて外交的優位を図る
遣隋使(607年):中国皇帝に臣属しない対等な形式の国書。冊封体制からの離脱を示す
共通点:いずれも東アジアの国際秩序のなかで自国の立場を有利にしようとする外交戦略
7世紀前半に、蘇我氏や王族により広められた仏教中心の文化を飛鳥文化といいます。飛鳥文化は、渡来人の活躍もあって百済や高句麗、そして中国の南北朝時代の文化の影響を多く受け、当時の西アジア・インド・ギリシアともつながる国際的な特徴をもっていました。
蘇我馬子が596年に完成させた飛鳥寺(法興寺)は、塔・金堂などの本格的伽藍をもつ最初の寺院でした。このほか厩戸王が創建したとされる四天王寺・法隆寺(斑鳩寺)、舒明天皇創建と伝える百済大寺などが建立され、寺院は古墳にかわって豪族の権威を示すものとなりました。
| 作品 | 特徴 |
|---|---|
| 法隆寺金堂釈迦三尊像 | 鞍作鳥の作と伝える金銅像。北魏様式を受け、きびしくおごそかな表情 |
| 中宮寺半跏思惟像 | やわらかい表情の木像。中国南朝様式の影響 |
| 法隆寺百済観音像 | 八頭身に近い長身の木像。日本特有のくすの木でつくられた |
| 法隆寺玉虫厨子 | 須弥座の側面に仏教説話の絵画が描かれた工芸品 |
| 中宮寺天寿国繍帳 | 厩戸王の死を悲しんだ妃の橘大郎女が刺繍させたもの |
①仏教中心の文化(寺院の建立が古墳にかわる権威の象徴に)
②百済・高句麗・中国南北朝の影響を多く受けた国際的な文化
③おもに天皇や中央の豪族によって信仰された(民衆への普及はまだ限定的)
④仏像彫刻に北魏様式(きびしい表情)と南朝様式(やわらかい表情)の二系統がみられる
厩戸王が亡くなると、蘇我馬子の子の蝦夷と孫の入鹿が政治の実権を握りました。入鹿は厩戸王の子の山背大兄王を滅ぼして権力を集中させ、蘇我氏の専横は頂点に達しました。
中国では唐が律令にもとづく中央集権的な国家体制を充実させており、唐にならった国家改革の必要性が高まっていました。中国から帰国した留学生たちが唐の国家のしくみを伝えると、氏姓制度にもとづく国政運営をあらためようとする動きが強まりました。
中大兄皇子は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らとともに、645年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしました(乙巳の変)。そして天皇中心の官僚制による中央集権を目指し、国政の改革に着手しました。
背景:①蘇我蝦夷・入鹿の専横 ②唐の強大化による国際的危機感 ③帰国留学生が伝えた中国の制度への関心
結果:蘇我本宗家の滅亡 → 中大兄皇子・中臣鎌足による新政権の成立 → 大化改新へ
乙巳の変の後、王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子となりました。中臣鎌足を内臣、唐から帰国した高向玄理と僧旻を国博士に任じ、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めました。初めて年号を定めて大化としたのもこの時です。
646年(大化2年)正月には改新の詔が出され、改革の基本方針が示されました。
| 条 | 内容 |
|---|---|
| 第1条 | 豪族の田荘・部曲を廃止し、公地公民制への移行を目指す |
| 第2条 | 中央・地方の行政区画を定め、中央集権的な地方支配体制を整備する |
| 第3条 | 戸籍・計帳をつくり、班田収授法を実施する |
| 第4条 | 新しい統一的な税制を定める |
こうした一連の政治改革の動きを大化改新といい、以後の律令国家建設へのさきがけとなりました。地方行政組織の「評」が各地に設置されるとともに、中央の官制も整備されて大規模な難波長柄豊碕宮が営まれました。
『日本書紀』に記されている改新の詔には、のちの8世紀の大宝令の条文などによって修飾されたと思われる部分があることが指摘されています。また、7世紀代の藤原宮木簡などには、「郡」ではなく「評」が使われていたことがわかっており、改新の詔の内容がそのまま645年に実施されたとは限りません。ただし、この時期に大きな政治改革が行われたことは間違いなく、律令国家への第一歩としての意義は揺るぎません。
①豪族の田荘・部曲を廃止 → 公地公民制を目指す
②中央・地方の行政区画を整備(「評」の設置)
③戸籍・計帳の作成と班田収授法の実施
④新しい統一的な税制の制定
飛鳥の朝廷は、豪族連合体制から律令国家へと転換する過渡期です。蘇我氏の台頭、推古朝の改革、そして大化改新を経て、天皇を中心とする中央集権国家の枠組みが形づくられていきます。
推古朝の改革は、強大な隣国(隋)の出現に対応して国内体制を急速に整備するという「外圧による近代化」の構図をもちます。これは、歴史総合で学ぶ19世紀の東アジア諸国(日本の明治維新、中国の洋務運動など)が西洋列強に対応するために近代化を急いだ構図と共通するテーマです。
蘇我氏の台頭のもと、推古天皇・厩戸王が冠位十二階・憲法十七条・遣隋使派遣で中央集権的な国家形成を進めた。飛鳥文化が花開くなか、645年の乙巳の変で蘇我本宗家が滅び、大化改新により律令国家への道が開かれた。
Q1. 587年、蘇我馬子に滅ぼされた、軍事・神事を担当する大連の氏族は何か。
Q2. 603年に制定された、個人の才能・功績に応じて冠位を授ける制度を何というか。
Q3. 604年に定められた、豪族に官僚としての自覚を求めた法を何というか。
Q4. 607年に遣隋使として中国に渡った人物は誰か。
Q5. 蘇我馬子が596年に完成させた、日本最初の本格的伽藍をもつ寺院を何というか。
Q6. 645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした事件を何というか。
推古朝の国政改革の内容を、冠位十二階と憲法十七条のそれぞれの目的を明確にして述べよ。
冠位十二階(603年)は、氏族単位で世襲される姓とは異なり、個人の才能・功績に応じて冠位を与える制度であり、王権の組織を再編成して人材を登用することを目的とした。憲法十七条(604年)は、豪族に国家の官僚としての自覚を求めるとともに、仏教を新しい政治理念として重んじ、天皇を中心とする国家秩序を確立することを目的とした。
5世紀の倭の五王の朝貢と、607年の遣隋使の派遣を、中国との関係における姿勢の違いに着目して比較せよ。
倭の五王は中国南朝に朝貢し、皇帝から称号を受けて冊封される形式をとった。朝鮮半島での立場を有利にするため、中国皇帝の権威に依存する外交であった。一方、607年の遣隋使の国書は中国皇帝に臣属しない対等な形式をとり、冊封体制からの離脱を示した。国内で冠位十二階・憲法十七条などの国家体制が整備され、独立した国家としての自信を背景とした外交への転換であった。
6世紀末から7世紀半ばにかけて、東アジアの国際情勢がヤマト政権の国内改革にどのような影響を与えたか述べよ。(4要素)
①589年の隋の南北統一により東アジアに緊張が生じ、推古朝は冠位十二階・憲法十七条により中央集権的な国家体制の整備を急いだ
②遣隋使・遣唐使の派遣で中国の制度や文化を積極的に吸収し、国政改革に活かした
③562年までに加耶諸国が百済・新羅に併合され、朝鮮半島での影響力が後退したことが、国内体制の強化を促した
④唐の強大化に危機感をもった中大兄皇子らが乙巳の変をおこし、大化改新で公地公民制を目指す改革に着手した
飛鳥時代の国内改革は、一貫して東アジアの国際情勢と連動しています。隋の統一 → 推古朝の改革、加耶の滅亡 → 朝鮮半島での後退、唐の成立 → 大化改新と、外圧が改革を加速させる構図が繰り返されていることを整理しておきましょう。