第16章 占領下の日本

冷戦の開始と講和
─ 占領政策の転換からサンフランシスコ講和条約へ

米ソ冷戦の激化にともない、アメリカの対日占領政策は民主化から経済復興へと転換しました。
ドッジ・ラインによるインフレ収束と、朝鮮戦争による特需景気が日本経済の復興を後押ししました。
1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は独立を回復し、同時に日米安全保障条約が締結されました。

冷戦体制の形成

第二次世界大戦後、アメリカを盟主とする西側(資本主義・自由主義陣営)と、ソ連を盟主とする東側(社会主義・共産主義陣営)の二大陣営が形成されました。アメリカはソ連「封じ込め」政策を掲げ(トルーマン・ドクトリン)、マーシャル・プランで西ヨーロッパ諸国の復興を援助しました。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)が結成されました。

東アジアでは1949年10月に中華人民共和国(主席毛沢東)が成立し、東側陣営に加わりました。敗れた国民党は台湾に逃れ、中華民国政府を存続させました。朝鮮半島では1948年、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、南北分断が固定化しました。

占領政策の転換とドッジ・ライン

中国内戦で共産党の優勢が明らかになった1948年以降、アメリカの対日占領政策は転換しました。非軍事化・民主化から、日本を西側陣営の東アジアにおける主要友好国として経済復興させる方針に変わりました。過度経済力集中排除法による企業分割は大幅に緩和され、公職追放の解除も進められました。

1948年12月、GHQは第2次吉田内閣に経済安定九原則の実行を指令しました。翌年、銀行家のドッジが特別公使として来日し、一連の施策を指示しました(ドッジ・ライン)。赤字を許さない超均衡予算が編成され、1ドル=360円の単一為替レートが設定されました。

ドッジ・ラインによってインフレは収束しましたが、1949年後半から不況が深刻化し、中小企業の倒産や人員整理が相次ぎました(安定恐慌)。

ここが問われる: 占領政策の転換 比較

前期(1945〜48年):非軍事化・民主化が最優先
後期(1948年〜):経済復興・西側陣営への編入が最優先
転換の背景:冷戦の激化、中国の共産化

朝鮮戦争と日本への影響

1950年6月、北朝鮮が武力統一を目指して韓国に侵攻し、朝鮮戦争が始まりました。アメリカ軍は国連軍として介入し、中国人民義勇軍も北朝鮮側に参戦して戦線は膠着状態となりました。1953年7月に休戦協定が調印されました。

朝鮮戦争が始まると、在日アメリカ軍の軍事的空白を埋めるため、GHQの指令で警察予備隊が新設されました。GHQは日本共産党幹部の公職追放を指令し、共産主義者の追放(レッドパージ)がマスコミから民間企業・官公庁へと広がりました。

日本経済にとって朝鮮戦争は、アメリカ軍の軍需物資調達による特需景気をもたらし、不況からの脱出のきっかけとなりました。

占領政策が転換されたのか
中国で共産党が勝利し、中華人民共和国が成立した
東アジアで冷戦が激化し、アメリカは日本の戦略的価値を再認識した
日本を西側陣営の有力な工業国として復興させる方針に転換
経済復興優先へ(ドッジ・ライン)、朝鮮戦争で特需景気が発生

サンフランシスコ平和条約と日米安保条約

朝鮮戦争で日本の戦略的価値を再認識したアメリカは、占領を終わらせて日本を西側陣営に編入しようとしました。日本国内には、ソ連・中国を含む全交戦国との全面講和を主張する意見もありましたが、第3次吉田茂内閣は西側諸国のみとの単独講和を選択しました。

1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本と48カ国とのあいだでサンフランシスコ平和条約が調印されました。ソ連などは調印せず、中国(中華人民共和国・中華民国のいずれも)は招かれませんでした。翌1952年4月に条約が発効し、6年8カ月におよんだ占領は終結し、日本は独立を回復しました。

条約では朝鮮の独立、台湾・南樺太・千島列島などの放棄が定められ、南西諸島・小笠原諸島はアメリカの施政権下におかれました。平和条約と同じ日に日米安全保障条約(安保条約)が調印され、独立後もアメリカ軍が日本国内に駐留を続けることとなりました。

ここが問われる: 全面講和 vs 単独講和 論点

全面講和論:ソ連・中国を含む全交戦国との講和を主張(南原繁ら知識人、社会党・共産党)
単独講和論:西側諸国のみと講和して早期に独立回復を目指す(吉田茂内閣)
結果:単独講和が選択され、安保条約でアメリカ軍の駐留が継続

この記事のつながり

冷戦の激化にともない、占領政策は民主化から経済復興へと転換しました。サンフランシスコ平和条約で独立を回復した日本は、日米安保条約のもと西側陣営の一員として戦後の歩みを始めます。

  • ← 16-1 占領と改革:初期の民主化改革が占領政策転換後も日本社会の基盤となった
  • 冷戦 → 占領政策の転換:中国の共産化がアメリカの対日方針を変えた
  • ドッジ・ライン → 安定恐慌:インフレは収束したが不況が深刻化
  • 朝鮮戦争 → 特需景気:不況から一転して経済復興が加速
  • → 17-1 55年体制:独立後の日本と高度経済成長へ

まとめ

  • 米ソ冷戦で世界は西側・東側の二大陣営に分かれた
  • 中華人民共和国の成立で東アジアの冷戦が激化した
  • 占領政策が経済復興優先に転換し、ドッジ・ラインでインフレが収束した
  • 朝鮮戦争警察予備隊が新設され、特需景気で経済が回復した
  • 1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は独立を回復した
  • 同日に日米安全保障条約が調印され、アメリカ軍の駐留が継続された
  • 南西諸島・小笠原諸島はアメリカの施政権下に残された
この節を100字で要約すると

冷戦激化で占領政策は経済復興に転換し、ドッジ・ラインでインフレが収束した。朝鮮戦争の特需で経済が回復する中、1951年にサンフランシスコ平和条約で独立を回復し、日米安保条約で西側陣営に組み込まれた。

穴埋め・一問一答

Q1. 1949年にGHQが実施させた、インフレ収束のための一連の経済政策を何というか。

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ドッジ・ライン。超均衡予算の編成と1ドル=360円の単一為替レートの設定が柱。

Q2. 朝鮮戦争の勃発後、日本国内に新設された軍事組織は何か。

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警察予備隊。在日アメリカ軍が朝鮮に動員された後の軍事的空白を埋めるため、GHQの指令で新設された。

Q3. 日本が独立を回復した条約を何というか。いつ調印され、いつ発効したか。

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サンフランシスコ平和条約1951年9月に調印、1952年4月に発効した。

Q4. サンフランシスコ平和条約と同日に調印された、アメリカ軍の駐留を定めた条約は何か。

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日米安全保障条約(安保条約)。独立後もアメリカ軍が日本国内に駐留を続けることを定めた。

Q5. 全面講和論と単独講和論のそれぞれの主張者を答えよ。

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全面講和:南原繁・大内兵衛ら知識人、日本社会党・日本共産党。単独講和吉田茂内閣。結果として単独講和が選択された。

アウトプット演習

問1 B 発展 論述

冷戦の激化がアメリカの対日占領政策にどのような影響を与えたか、占領政策の転換・経済復興・講和に着目して論述せよ。

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解答

冷戦の激化と中華人民共和国の成立により、アメリカは日本を西側陣営の主要友好国として位置づけ、占領政策を非軍事化・民主化から経済復興優先へと転換した。過度経済力集中排除法の適用は大幅に緩和され、ドッジ・ラインによってインフレの収束と経済の自立が図られた。1950年の朝鮮戦争では警察予備隊が新設される一方、特需景気で日本経済は回復した。アメリカは日本の早期独立と西側陣営への編入を進め、1951年にサンフランシスコ平和条約で西側48カ国との単独講和を実現するとともに、日米安保条約でアメリカ軍の継続駐留を定め、日本を冷戦体制のもとで西側の一員として位置づけた。