明治政府は学制・教育令を経て学校令で近代的な学校体系を整え、教育勅語で忠君愛国を教育の基本としました。
自然科学では北里柴三郎・高峰譲吉ら世界的な成果があがり、文学では写実主義からロマン主義・自然主義へと展開しました。
美術では伝統美術と西洋美術が競合しながら発展し、文展の開設で共存の方向に向かいました。
学制(1872年公布)のもとで小学校教育の普及がはかられましたが、画一的な強制への批判から1879年に教育令に改められました。さらに試行錯誤を経て、1886(明治19)年に森有礼文部大臣のもとでいわゆる学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学からなる近代的な学校体系が整備されました。
1890(明治23)年には教育勅語が発布され、忠君愛国が学校教育の基本であることが強調されました。1903年には小学校の教科書を文部省の著作に限る国定教科書制度が定められ、1907年には義務教育が6年間に延長されました。
高等教育では東京帝国大学に加えて京都帝国大学(1897年)をはじめ各地に帝国大学が創設されました。民間では慶応義塾・同志社のほか、大隈重信が設立した東京専門学校(のち早稲田大学)などの私立学校が発展しました。
1872年:学制公布
1879年:教育令に改正
1886年:学校令(森有礼)→ 近代的学校体系の整備
1890年:教育勅語発布(忠君愛国)
1903年:国定教科書制度
1907年:義務教育を6年間に延長
大学の発足とともに、欧米人教師や留学経験者が各専門分野を確立していきました。法学ではフランス法からドイツ法へと中心が移り、フェノロサ(経済学・哲学・美学)、モース(動物学・考古学)らアメリカ人教師が幅広い学問分野の基礎を築きました。
自然科学では、北里柴三郎がドイツ留学中に破傷風の血清療法を確立し、高峰譲吉がアメリカでタカジアスターゼを発明しアドレナリンの抽出に成功しました。国内でも長岡半太郎の原子構造研究など物理学の高水準の研究がおこなわれました。
坪内逍遙は1885年に評論『小説神髄』を発表し、人間の内面を客観的に描く写実主義を提唱しました。二葉亭四迷の『浮雲』は言文一致体の先駆的作品となりました。尾崎紅葉らの硯友社も写実主義を掲げつつ文芸の大衆化を進めました。
日清戦争前後には、感情・個性を重んじるロマン主義文学が盛んになりました。北村透谷らの雑誌『文学界』がその拠点となり、森鷗外・泉鏡花の小説、島崎藤村の新体詩、与謝野晶子の情熱的な短歌が現れました。樋口一葉もロマン主義の影響下で作品を残しました。正岡子規は俳句の革新と万葉調の和歌の復興を進めました。
日露戦争の前後には、人間社会の現実をありのままに描く自然主義が文壇の主流となり、国木田独歩・田山花袋・島崎藤村・徳田秋声らの作家が活躍しました。これに対して夏目漱石や森鷗外の歴史小説なども現れ、多様な文学が展開されました。
写実主義:坪内逍遙『小説神髄』、二葉亭四迷『浮雲』
ロマン主義:北村透谷、森鷗外、島崎藤村、与謝野晶子、樋口一葉
俳句革新:正岡子規
自然主義:国木田独歩、田山花袋、島崎藤村、徳田秋声
反自然主義:夏目漱石、森鷗外(歴史小説)
政府はフェノロサや岡倉天心の影響のもと伝統美術の育成に力を入れ、1887年に東京美術学校を設立しました。狩野芳崖・橋本雅邦らがすぐれた日本画を創作しました。
西洋画は高橋由一によって開拓され、フランスで学んだ黒田清輝の帰国後に盛んになりました。1896年には東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田らは白馬会を創立しました。1907年には文部省美術展覧会(文展)が開設され、日本画と西洋画の共存の場となりました。
歌舞伎は引き続き民衆に親しまれ、明治中期には「団菊左時代」が現出しました。日清戦争前後からは新派劇が人気を集め、日露戦争後には坪内逍遙の文芸協会や小山内薫の自由劇場が西洋の近代劇を上演し、新劇と呼ばれました。
西洋音楽は軍楽隊で最初に取り入れられ、小学校教育に唱歌が採用されました。1887年に東京音楽学校が設立されて専門的な音楽教育が始まり、滝廉太郎らの作曲家が現れました。
日本画:狩野芳崖・橋本雅邦(フェノロサ・岡倉天心の保護)
西洋画:高橋由一 → 黒田清輝・白馬会
文展(1907年):日本画と西洋画の共存
新派劇:歌舞伎に対する現代劇
新劇:坪内逍遙の文芸協会、小山内薫の自由劇場
政府は神社神道を宗教ではないと位置づけて保護する一方、大日本帝国憲法で信教の自由を認めました。廃仏毀釈で打撃を受けた仏教は近代の宗教として勢いを取り戻し、キリスト教は内村鑑三・新島襄・新渡戸稲造らの活動を通じて青年知識人のあいだに広がりました。
徳富蘇峰は民友社をつくって雑誌『国民之友』を刊行し、平民的欧化主義を説きました。これに対して三宅雪嶺・陸羯南らは国家の独立や国民性を重視する立場から論陣を張りました。
明治政府は学校令で近代教育制度を整備し、教育勅語で忠君愛国を強調しました。欧米の学問・文芸・美術が導入され、日本独自の展開を見せる一方、思想面では平民的欧化主義と国民性重視の立場が論争を展開しました。
学校令と教育勅語で近代教育制度が整備され、北里柴三郎ら世界的な科学者が登場した。文学は写実主義からロマン主義・自然主義へと展開し、美術では伝統と西洋の競合・共存が文展の開設で実現した。
Q1. 1886年に学校令を公布した文部大臣の名を答えよ。
Q2. 1890年に発布された、忠君愛国を教育の基本とする文書を何というか。
Q3. 『小説神髄』を著して写実主義を提唱した人物を答えよ。
Q4. フランスで学んだ洋画家で、白馬会を創立した人物を答えよ。
Q5. 1907年に開設された、日本画と西洋画の共存の場となった展覧会を答えよ。
明治期の文学の展開を、写実主義・ロマン主義・自然主義の順に、代表的な作家とともに説明せよ。
1885年に坪内逍遙が『小説神髄』で写実主義を提唱し、二葉亭四迷の『浮雲』が言文一致の文学を開拓した。日清戦争前後には、感情や個性の表現を重視するロマン主義が盛んになり、北村透谷らの『文学界』を拠点に、森鷗外・島崎藤村・与謝野晶子・樋口一葉らが活躍した。日露戦争の前後になると、人間社会の現実をありのままに描く自然主義が文壇の主流となり、国木田独歩・田山花袋・島崎藤村・徳田秋声らが現れた。一方で夏目漱石や森鷗外の歴史小説など反自然主義の作品も生まれた。