第13章 近代国家の展開

第一次世界大戦と日本
─ 大正政変から米騒動・原敬内閣へ

大正政変で藩閥政治への批判が高まるなか、第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟を理由に参戦しました。
二十一カ条の要求やシベリア出兵で中国・国際社会との摩擦が深まる一方、大戦景気のもとで米騒動がおこりました。
1918年には初の本格的政党内閣である原敬内閣が成立し、政党政治が新たな段階に入りました。

第1次護憲運動と大正政変

1912(大正元)年、第2次西園寺公望内閣が陸軍の2個師団増設要求を拒否すると、上原勇作陸軍大臣が単独で辞表を提出し、内閣は総辞職しました。後継首相となった桂太郎(第3次)に対して、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅を中心に「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第1次護憲運動が全国に広がりました。

民衆が議会を包囲するなか、1913(大正2)年2月、桂内閣はわずか50日余りで退陣しました(大正政変)。桂のあとを継いだ山本権兵衛内閣は軍部大臣現役武官制を改め、予備・後備役にまで資格を広げましたが、シーメンス事件(外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の瀆職事件)の発覚で退陣しました。

ここが問われる: 大正政変の経過 時系列

1912年末:2個師団増設問題 → 陸相単独辞任 → 第2次西園寺内閣総辞職
第3次桂太郎内閣:「閥族打破・憲政擁護」の第1次護憲運動
1913年2月:大正政変(桂内閣退陣)
山本権兵衛内閣:軍部大臣現役武官制の改正 → シーメンス事件で退陣

第一次世界大戦への参戦

20世紀初頭のヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商が対立を深めていました。1914(大正3)年6月、サライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発し、4年余りにおよぶ総力戦となりました。

第2次大隈重信内閣は、加藤高明外務大臣の主導により日英同盟を理由として参戦し、中国におけるドイツの根拠地青島山東省の権益を接収し、赤道以北のドイツ領南洋諸島の一部を占領しました。

二十一カ条の要求

1915(大正4)年、加藤外務大臣は中国の袁世凱政府に対し、山東省のドイツ権益の継承、南満洲および東部内蒙古の権益の強化などを内容とする二十一カ条の要求をおこない、最後通牒を発して要求の大部分を承認させました。この外交は中国国民の強い反発を招き、内外から批判されました。

ここが問われる: 日本の参戦と二十一カ条の要求 列挙

参戦の理由:日英同盟を根拠
獲得した権益:山東省のドイツ権益、南洋諸島
二十一カ条の要求(1915年):山東省権益の継承、南満洲・東部内蒙古の権益強化
結果:中国国民の強い反発、国際社会からの批判

ロシア革命とシベリア出兵

1917年、ロシアで帝政と戦争継続に反対するロシア革命がおこり、世界で初めての社会主義国家が誕生しました。レーニン率いるソヴィエト政権は無併合・無賠償・民族自決の原則を呼びかけ、ドイツ・オーストリアと単独講和を結んで戦線から離脱しました。

社会主義国家の誕生を恐れた連合国は干渉戦争をしかけ、アメリカがシベリアにいたチェコスロヴァキア軍団の救援を名目とする共同出兵を提唱したのを受けて、寺内正毅内閣は1918(大正7)年8月にシベリア・北満洲への派兵を決定しました(シベリア出兵)。大戦終了後、列国が干渉戦争から手を引くなか、日本は1922(大正11)年まで駐兵を続けました。

同時期、日本の中国進出を警戒するアメリカとのあいだで、1917年に石井・ランシング協定が結ばれ、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆえに日本が中国に特殊利益をもつことを相互に確認する公文が交換されました。

米騒動と原敬内閣

大戦による急激な経済発展は工場労働者の増加と都市への人口集中をもたらし、米の消費量を増大させました。寄生地主制のもとでの農業生産の停滞もあり、米価が上昇して都市労働者や下層農民の生活が圧迫されました。

1918(大正7)年、シベリア出兵を見込んだ米の投機的買い占めが横行して米価が急騰すると、7月に富山県でおきた騒動をきっかけに、全国38市・153町・177村、約70万人を巻き込む大騒擾となりました(米騒動)。政府は軍隊を出動させて鎮圧しましたが、寺内内閣は総辞職しました。

元老の山県有朋もついに政党内閣を認め、1918(大正7)年9月、立憲政友会の総裁原敬を首班とする内閣が成立しました。爵位をもたず衆議院に議席をもつ初の首相であったため「平民宰相」と呼ばれました。原内閣は国際協調外交を推進し、鉄道の拡充や高等学校の増設などの積極政策を進めましたが、普通選挙制には慎重で、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げるにとどまりました。

原は1921(大正10)年に東京駅で暗殺され、以後、高橋是清内閣を経て約2年間の非政党内閣が続きました。

米騒動がおきたのか
大戦景気による工場労働者の増加と都市人口の集中で米の需要が急増
寄生地主制のもとで農業生産は停滞し、米の供給が不足がちになった
シベリア出兵を見込んだ投機的買い占めで米価が急騰
富山県の騒動をきっかけに全国に波及 → 寺内内閣の総辞職と原敬内閣の成立

パリ講和会議と民族運動

1918年11月、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した十四カ条を基礎としてドイツとの休戦が成立しました。翌1919年1月からパリで講和会議が開かれ、日本も五大連合国の一員として参加しました。6月に調印されたヴェルサイユ条約は、ドイツに巨額の賠償金と軍備制限、本国領土の一部割譲を課す一方、国際連盟の設立を決めました。

日本はヴェルサイユ条約によって山東省の旧ドイツ権益の継承を認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。しかし山東問題にはアメリカなどが反対し、中国では五・四運動がおこりました。

民族自決の国際世論を背景に、朝鮮では1919年3月1日、京城(ソウル)のパゴダ公園(タプッコル公園)での独立宣言書朗読会を機に、朝鮮全土で独立を求める運動が展開されました(三・一独立運動)。この運動はおおむね平和的非暴力的なものでしたが、朝鮮総督府は警察・憲兵・軍隊を動員してきびしく弾圧しました。原敬内閣は植民地統治方針について若干の改善をおこないました。

ここが問われる: パリ講和会議と民族運動 列挙

ヴェルサイユ条約(1919年):ドイツへの賠償・軍備制限、国際連盟の設立
日本:山東省の旧ドイツ権益継承、南洋諸島の委任統治権
五・四運動(中国):日本の山東省権益継承への反対運動
三・一独立運動(朝鮮、1919年):朝鮮全土での独立運動

民本主義と大正デモクラシー

大正政変を契機とする民衆運動の高揚は、政治思想にも大きな影響を与えました。1916(大正5)年、東京帝国大学教授の吉野作造民本主義を提唱し、大日本帝国憲法の枠内で民主主義の長所を採り入れることを主張しました。また、美濃部達吉天皇機関説とともに大正デモクラシーの理論的支柱となりました。

吉野の影響を受けた東京帝国大学の学生たちは新人会などの思想団体を結成し、労働運動・農民運動との関係を深めていきました。大逆事件以来の「冬の時代」にあった社会主義者たちも活動を再開し、1920(大正9)年には日本社会主義同盟が結成されました。

この記事のつながり

大正政変で藩閥政治への批判が表面化し、第一次世界大戦への参戦で日本は中国大陸への進出を強めました。ロシア革命・シベリア出兵・米騒動を経て原敬内閣が成立し、政党政治と大正デモクラシーが展開されていきました。

  • ← 13-1 日清・日露戦争と国際関係:桂園時代から大正政変への転換
  • 日英同盟 → 参戦:同盟を理由とした日本の第一次世界大戦参戦
  • 二十一カ条の要求 → 五・四運動:日本の中国進出が中国民族運動を刺激
  • 米騒動 → 原敬内閣:民衆運動が政党内閣の成立を促した
  • → 13-3 ワシントン体制:パリ講和体制からワシントン体制へ

まとめ

  • 第1次護憲運動により大正政変がおこり、第3次桂太郎内閣が退陣した
  • 日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦し、山東省・南洋諸島を占領した
  • 1915年の二十一カ条の要求で中国に権益を認めさせたが、内外の批判を招いた
  • 1917年のロシア革命を受けて1918年にシベリア出兵がおこなわれた
  • 1918年に米騒動がおこり、寺内内閣の総辞職後に原敬内閣が成立した
  • ヴェルサイユ条約で山東省権益と南洋諸島の委任統治権を獲得した
  • 朝鮮では三・一独立運動、中国では五・四運動がおきた
  • 吉野作造民本主義が大正デモクラシーの理論的支柱となった
この節を100字で要約すると

大正政変後、日本は第一次世界大戦に参戦して中国権益を拡大したが、二十一カ条の要求は国際的批判を招いた。米騒動を機に原敬内閣が成立し、民本主義の提唱とともに大正デモクラシーの時代が始まった。

穴埋め・一問一答

Q1. 第1次護憲運動で掲げられたスローガンと、中心となった2人の政治家を答えよ。

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スローガン:「閥族打破・憲政擁護」。中心人物:尾崎行雄(立憲政友会)と犬養毅(立憲国民党)。

Q2. 日本が第一次世界大戦に参戦した理由と、外務大臣の名を答えよ。

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理由:日英同盟を根拠として。外務大臣:加藤高明

Q3. 1915年に日本が中国に突きつけた要求の名称と、その主な内容を答えよ。

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二十一カ条の要求。山東省のドイツ権益の継承、南満洲・東部内蒙古の権益強化など。

Q4. 1918年の米騒動のきっかけと、その結果成立した内閣を答えよ。

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きっかけ:シベリア出兵を見込んだ米の買い占めで米価が急騰。富山県の騒動が全国に拡大。結果:寺内内閣の総辞職 → 原敬内閣の成立。

Q5. 民本主義を提唱した人物と、その内容を簡潔に説明せよ。

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吉野作造。大日本帝国憲法の天皇主権の枠内で、普通選挙に基づく政党内閣の実現を主張した。

Q6. 朝鮮でおきた三・一独立運動(1919年)の背景を答えよ。

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第一次世界大戦後の民族自決の国際世論の高まりを背景に、学生・宗教団体を中心に朝鮮全土で独立を求める運動が展開された。

アウトプット演習

問1 A 基礎 説明

第一次世界大戦における日本の行動を、参戦理由・二十一カ条の要求・シベリア出兵に着目して説明せよ。

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解答

日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦し、中国における青島・山東省のドイツ権益と南洋諸島を占領した。さらに1915年には中国に二十一カ条の要求を突きつけ、最後通牒を発して山東省権益の継承や南満洲権益の強化を認めさせた。1917年のロシア革命後、連合国の共同出兵の呼びかけに応じて1918年にシベリア出兵を決定したが、列国が撤兵したのちも1922年まで駐兵を続け、国際的な批判を招いた。

問2 B 標準 論述

米騒動から原敬内閣の成立に至る過程を、大戦景気・物価上昇・政党政治の関連に着目して論じよ。

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解答

第一次世界大戦による大戦景気は工場労働者の増加と都市への人口集中をもたらし、米の需要を急増させた。一方、寄生地主制のもとで農業生産は停滞し、米価が上昇して都市労働者や下層農民の生活を圧迫した。1918年にシベリア出兵を見込んだ投機的買い占めで米価がさらに急騰すると、富山県の騒動をきっかけに全国約70万人が参加する米騒動が発生した。軍隊による鎮圧にもかかわらず寺内内閣は総辞職に追い込まれ、国民の政治参加の拡大を求める声の高まりのなか、元老の山県有朋も政党内閣を認め、立憲政友会の原敬を首班とする本格的な政党内閣が成立した。