明治六年の政変で下野した板垣退助らは民撰議院設立建白書を提出し、自由民権運動が全国に広がりました。
政府は国会開設の勅諭を出して1890年までの国会開設を約束する一方、伊藤博文を中心にドイツ流の憲法を起草しました。
大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開設により、日本はアジア初の近代的立憲国家となりました。
1874(明治7)年、明治六年の政変で下野した板垣退助・後藤象二郎らは、愛国公党を設立するとともに、民撰議院設立建白書を左院に提出しました。政府官僚の専断(有司専制)の弊害を批判し、議会の設立を求めたこの建白書は新聞に掲載されて世論に大きな影響を与え、自由民権運動の導火線となりました。
板垣は郷里の土佐に帰って立志社を創立し、翌1875年にはこれを中心に民権派の全国組織を目指して愛国社を大阪に設立しました。
政府側も立憲制への移行を検討し、1875(明治8)年初め、大久保利通と木戸孝允・板垣退助の三者が大阪で会談しました(大阪会議)。この結果、木戸・板垣はいったん政府に復帰し、同年4月に漸次立憲政体樹立の詔が出されました。立法諮問機関として元老院、最高裁判所に当たる大審院、府知事・県令からなる地方官会議が設置されました。
一方で政府は1875(明治8)年6月、讒謗律・新聞紙条例などを制定して、民権派の言論活動をきびしく取り締まりました。
1874年:民撰議院設立建白書を左院に提出(板垣退助・後藤象二郎ら)
1874年:板垣が土佐に立志社を創立
1875年:愛国社を大阪に設立(民権派の全国組織を目指す)
1875年:大阪会議 → 漸次立憲政体樹立の詔、元老院・大審院の設置
1875年:讒謗律・新聞紙条例で言論弾圧
西南戦争後、武力による政府転覆が不可能であることが明らかになると、不平士族は言論による運動に力を注ぎました。1878(明治11)年に愛国社の再興大会が大阪で開かれた頃から、運動は士族だけでなく地主や都市の商工業者、府県会議員などのあいだにも広まっていきました。
1880(明治13)年3月には国会期成同盟が結成され、天皇あての国会開設請願書を太政官や元老院に提出しようとしましたが、政府はこれを受理せず、4月に集会条例を定めて政社の活動を制限しました。
国会期成同盟の第2回大会(1880年11月)では、各自の憲法草案を持ち寄ることが決められ、多くの私擬憲法が作成されました。交詢社案は議院内閣制と国務大臣連帯責任制を定めたもので、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」は広範な人権保障や抵抗権・革命権を盛り込んだ急進的なものでした。
1878(明治11)年には郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる地方三新法が制定されました。これにより府会・県会を通してある程度の民意を組み入れられる地方制度となりました。
国会期成同盟(1880年):国会開設請願書を提出しようとしたが政府は不受理
集会条例(1880年):政社の活動を制限
私擬憲法:交詢社案(議院内閣制・国務大臣連帯責任制)、植木枝盛「東洋大日本国国憲按」(人権保障・抵抗権)、五日市憲法草案など
1878(明治11)年に大久保利通が暗殺されて以来、政府は強力な指導者を欠いていました。自由民権運動の高まりを前に政府内で内紛が生じ、大隈重信はイギリス流の議院内閣制の早期導入を主張して、岩倉具視や伊藤博文と激しく対立しました。
同時期に開拓使官有物払下げ事件がおこり、世論の政府攻撃が激化しました。1881(明治14)年10月、政府は大隈を罷免したうえで、欽定憲法制定の基本方針を決定し、国会開設の勅諭を出して1890年に国会を開設すると公約しました(明治十四年の政変)。
国会開設の時期が決まると、1881(明治14)年10月、板垣退助を党首とし、フランス流の急進的な自由主義をとなえる自由党が結成されました。翌1882(明治15)年には大隈重信を党首として、イギリス流の議院内閣制を主張する立憲改進党が結成されました。
自由党は主として地方農村を基盤とし、立憲改進党は都市の実業家や知識人に支持されました。政府側も立憲帝政党を結成させましたが、民権派に対抗できるほどの勢力にはなれませんでした。
自由党(1881年):党首=板垣退助、フランス流の急進的自由主義、基盤=地方農村の豪農・士族
立憲改進党(1882年):党首=大隈重信、イギリス流の議院内閣制、基盤=都市の実業家・知識人
1881(明治14)年に大蔵卿となった松方正義は、増税と歳出の引き締めをはかるとともに、不換紙幣の回収と正貨の蓄積につとめました。1882年には中央銀行として日本銀行を創設し、1885年から兌換銀行券を発行して銀本位制を確立しました。
しかし厳しい財政の引き締めにより物価は著しく下落し、深刻な不況が全国におよびました(松方デフレ)。米や繭の値下がりで農村は大きな打撃を受け、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落し、地主への土地集中が進みました。
松方デフレ下の農村の疲弊は自由民権運動にも大きな影響を与えました。1882(明治15)年には福島事件がおこり、ついで高田事件・群馬事件・加波山事件などの激化事件が続きました。
1884(明治17)年には埼玉県秩父地方で、困民党と称する約3000人の農民が負債の減免を求めて蜂起し、高利貸・警察・郡役所などを襲撃しました(秩父事件)。政府はその鎮圧に軍隊まで派遣しました。
自由党は党員の統率に自信を失い、運動資金の不足もあって1884年に解党しました。立憲改進党も大隈重信ら中心的指導者が離党し、事実上の解党状態となりました。
松方デフレ:緊縮財政 → 物価下落 → 農民困窮 → 自作農の小作農への転落
激化事件:福島事件(1882年)→ 群馬事件・加波山事件(1884年)→ 秩父事件(1884年)
帰結:自由党解党(1884年)、立憲改進党も事実上解党、民権運動は一時衰退
国会開設を約束した政府は、1882(明治15)年3月、伊藤博文らをヨーロッパに派遣して憲法や諸制度の調査にあたらせました。伊藤はベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインから、主としてドイツ流の憲法理論を学んで帰国しました。
1884(明治17)年に華族令を定めて華族を公・侯・伯・子・男の5爵位にわけるとともに、旧上層公家・大名以外からも国家に功績のあった者が華族になれるようにして、将来の貴族院の土台をつくりました。ついで1885(明治18)年には太政官制を廃して内閣制度を創設し、初代の内閣総理大臣に伊藤博文が就任しました。
各省の長官は国務大臣として天皇に直接責任を負うものとされました。また宮中の事務に当たる宮内省は内閣の外におかれ、行政府(府中)と宮中の区別が明確にされました。
地方制度の改革も、ドイツ人顧問モッセの助言を得て山県有朋を中心に進められました。1888(明治21)年に市制・町村制、1890(明治23)年に府県制・郡制が公布され、政府の強い統制のもとではあるものの、地方自治制度が確立しました。
1886(明治19)年末頃から、憲法草案作成作業が極秘のうちに進められました。ドイツ人顧問ロエスレルらの助言を得て、伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らが起草にあたりました。
1882年:伊藤博文らをヨーロッパに派遣(グナイスト・シュタインに学ぶ)
1884年:華族令(貴族院の土台)
1885年:内閣制度創設、初代首相=伊藤博文
1886年〜:憲法草案の極秘起草(井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎)
1888年:市制・町村制公布、枢密院設置
国会開設の時期が近づくと、衰退していた民権派の再結集がはかられました。1887(明治20)年には、地租の軽減・言論集会の自由・対等条約の締結を要求する三大事件建白運動がおこり、旧自由党系と立憲改進党系を問わず大同団結の動きが活発になりました。同年末に政府は保安条例を公布して多くの在京の民権派を東京から追放しましたが、運動を完全に抑えることはできませんでした。
憲法草案は、天皇の最高諮問機関として1888(明治21)年に設置された枢密院で審議が重ねられたのち、1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)として発布されました。
大日本帝国憲法は天皇が定めて国民に与える欽定憲法であり、天皇が国の元首として統治権のすべてを握ると定めました(天皇主権)。天皇の権限は強く、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和や条約の締結などは議会の関与できない天皇大権とされました。とくに陸海軍の統帥権は内閣からも独立して天皇に直属していました(統帥権の独立)。
天皇主権のもと、立法・行政・司法の三権分立制がとられましたが、政府の権限は強く、各国務大臣は個別に天皇に対してのみ責任を負い、議会に対する責任は不明確でした。
帝国議会は、皇族・華族や勅選議員などからなる貴族院と、公選の議員で構成される衆議院との二院制がとられ、両院は対等の権限をもちました。議会の同意なしには法律は制定できず予算も成立しなかったため、政府は議会の意向を無視することはできませんでした。
国民は「臣民」と呼ばれ、信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、所有権の不可侵を認められましたが、これらは「法律の範囲内」という制限がありました。こうして日本はアジア初の近代的立憲国家となりました。
また憲法の公布と同時に議院法・衆議院議員選挙法・貴族院令が公布され、皇室典範も制定されて皇位の継承などについて定められました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 憲法の性格 | 欽定憲法(天皇が制定して国民に付与) |
| 主権 | 天皇主権(統治権の総攬者) |
| 天皇大権 | 軍の統帥、宣戦・講和、条約締結、官吏任免など |
| 議会 | 貴族院と衆議院の二院制(対等) |
| 内閣 | 国務大臣は天皇に対して個別に責任を負う |
| 臣民の権利 | 信教・言論・集会・結社の自由(法律の範囲内) |
発布:1889年2月11日
性格:欽定憲法(天皇が制定)
天皇大権:統帥権・宣戦講和・条約締結 → 議会は関与できない
統帥権の独立:陸海軍の統帥は内閣からも独立
臣民の権利:「法律の範囲内」での保障
意義:アジア初の近代的立憲国家
1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙では、旧民権派(民党)が大勝し、立憲自由党(翌年自由党と改称)と立憲改進党などの民党が衆議院の過半数を占めました。選挙権は満25歳以上の男性で直接国税15円以上を納める者に限られ、有権者は全人口の約1.1%にすぎませんでした。
憲法発布直後に黒田清隆首相は、政府の政策が政党の意向に左右されてはならないという超然主義の立場を表明していました。しかし第1回帝国議会(第一議会)では、第1次山県有朋内閣が予算問題で政費節減・民力休養を主張する民党に攻撃されました。
つづく第1次松方正義内閣は民党と衝突して衆議院を解散し、1892(明治25)年の第2回総選挙では内務大臣品川弥二郎を中心に激しい選挙干渉をおこないましたが、民党の優勢をくつがえすことはできませんでした。
ついで成立した第2次伊藤博文内閣は自由党と接近し、天皇の詔勅の力も借りて海軍軍備の拡張に成功しました。しかし政府と衆議院の対立は日清戦争直前まで続きました。
幕府から引き継いだ不平等条約の改正は明治政府の重要課題でした。外務卿(のち外務大臣)井上馨は欧化政策を進めて条約改正交渉にあたりましたが、外国人裁判官の任用問題で反対を受けて挫折しました。ついで外相大隈重信も同様の問題で負傷し、交渉は中止されました。
1894(明治27)年、外相陸奥宗光のもとで日英通商航海条約の調印に成功し、領事裁判権の撤廃と最恵国待遇の相互化が実現しました。関税自主権の完全回復は、1911年の小村寿太郎外相による条約改正で達成されました。
条約改正の前提として法典の整備も進められました。フランスの法学者ボアソナードをまねいて刑法・民法などが起草されました。1890年に公布された民法に対しては、日本の伝統に反するとの批判がおこり(民法典論争)、修正のうえ1896・98年に新しい民法が公布されました。新民法は戸主権や家督相続制度など家父長制的な家の制度を存続させるものとなりました。
井上馨:欧化政策で交渉 → 外国人裁判官任用問題で失敗
大隈重信:大審院への外国人判事任用案 → 反対運動で負傷、中止
陸奥宗光(1894年):日英通商航海条約調印 → 領事裁判権の撤廃に成功
小村寿太郎(1911年):関税自主権の完全回復
明治六年の政変を起点とする自由民権運動は、国会開設の勅諭・政党の結成・私擬憲法の作成を経て、大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開設につながりました。初期議会での政府と民党の対立は、やがて政党政治の発展へとつながっていきます。
自由民権運動の高まりを受けて政府は国会開設を公約し、伊藤博文を中心にドイツ流の大日本帝国憲法を起草・発布した。帝国議会の開設により日本はアジア初の立憲国家となったが、天皇主権のもと政府と議会は初期議会で激しく対立した。
Q1. 1874年に板垣退助らが政府に提出した、議会設立を求める文書を何というか。
Q2. 1875年の大阪会議の結果出された、立憲制への移行を約束する詔を何というか。
Q3. 1881年の明治十四年の政変で罷免された人物と、その結果出された詔をそれぞれ答えよ。
Q4. 伊藤博文がヨーロッパで憲法理論を学んだ2人の学者を答えよ。
Q5. 1885年に太政官制にかわって創設された制度と、初代の内閣総理大臣を答えよ。
Q6. 大日本帝国憲法の発布日と、この憲法の性格(制定形式)を答えよ。
Q7. 1894年に領事裁判権の撤廃に成功した条約名と、その時の外相を答えよ。
明治十四年の政変の経緯を、大隈重信の主張・開拓使官有物払下げ事件・国会開設の勅諭の関連に着目して説明せよ。
1881年、自由民権運動が高まるなか、大隈重信はイギリス流の議院内閣制の早期導入を主張し、漸進主義をとる岩倉具視・伊藤博文らと激しく対立した。同時期に開拓使長官の黒田清隆が、官有物を不当に安い価格で政商の五代友厚らに払い下げようとしたことが報じられ、世論の政府攻撃が激しくなった。伊藤博文らは大隈をこの世論の動きと結びつけて罷免するとともに、欽定憲法制定の方針を決定し、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。これによって伊藤博文を中心とする藩閥政権が確立し、天皇主権のもとでの立憲制に向けた準備が始められた。
大日本帝国憲法における天皇の権限と議会の権限をそれぞれ説明し、両者の関係について論じよ。
大日本帝国憲法では、天皇が統治権の総攬者とされ、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和、条約の締結などの天皇大権が規定された。とくに統帥権は内閣からも独立して天皇に直属するものとされた。一方、帝国議会は貴族院と衆議院の二院制で、法律の制定と予算の成立には議会の同意が必要とされた。しかし天皇大権に関する予算については議会の削減権が制限され、予算不成立の場合は前年度予算が執行される規定もあった。このように議会の権限には多くの制限があったものの、法律と予算を通じて国政に参与する道が開かれたことで、やがて政党の政治的影響力がしだいに大きくなっていった。