紀元前数世紀、朝鮮半島から水稲農耕の技術が伝わると、日本列島の社会は根本から変わりました。
食料を「つくる」社会は、やがて貧富の差と権力を生み、「クニ」と呼ばれる小さな国々が各地に成立します。
中国の歴史書が伝える「倭国」──その姿を追っていきましょう。
| 時期 | おもなできごと |
|---|---|
| 紀元前8〜5世紀頃 | 九州北部で水稲農耕が始まる(菜畑遺跡・板付遺跡) |
| 紀元前4世紀頃 | 水稲農耕が東日本にも拡大 |
| 紀元前1世紀 | 倭人は100余国に分かれる(『漢書』地理志) |
| 57年 | 倭の奴国王が後漢の光武帝から金印を受ける |
| 107年 | 倭国王帥升等が後漢に生口160人を献上 |
| 2世紀後半 | 倭国の大乱 |
| 3世紀前半 | 卑弥呼が邪馬台国を中心とする連合を形成 |
| 239年 | 卑弥呼が魏に使いを送り「親魏倭王」の称号を受ける |
| 247年頃 | 卑弥呼没。壱与(台与)が後を継ぐ |
| 266年 | 倭の女王が晋に使いを送る(以後約150年間、倭国の記録が途絶える) |
イネの原産地は中国の長江中・下流域で、紀元前6500年頃にはすでに稲作がおこなわれていました。 この技術は朝鮮半島を経て日本列島に伝わり、紀元前8〜5世紀頃、九州北部で水田による米づくりが始まりました。
福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡は、弥生時代早期の代表的な遺跡です。 水稲農耕はやがて東へと広がり、紀元前4〜3世紀頃には東北地方北部にまで達しました。 ただし、北海道では稲作が伝わらず続縄文文化が、南西諸島では貝塚後期文化がそれぞれ独自に続きました。
弥生文化を象徴する弥生土器は、縄文土器の技術に朝鮮半島からの新しい技術が加わって生み出されました。 名称は1884(明治17)年、東京の本郷弥生町(現在の文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で発見されたことに由来します。 弥生土器は用途に応じて、煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食物を盛る高杯や鉢に分かれており、縄文土器に比べてシンプルで薄手なのが特徴です。
弥生文化は、朝鮮半島から渡来した人々と在来の縄文人が共同で生み出した文化です。 九州北部や近畿地方の弥生人骨には、縄文人に比べて背が高く、面長で顔の起伏が少ない特徴が見られ、大陸からの渡来人またはその子孫と考えられています。
弥生時代の水田は、1辺数メートル程度の小さな区画で、灌漑・排水用の水路を備えた本格的なものでした。 木製の鍬や鋤で耕し、実った稲穂は石包丁で穂首刈りして収穫しました。 脱穀には木臼と竪杵を使い、収穫物は高床倉庫や貯蔵穴に保管しました。 イネだけでなく、アワやキビなどの雑穀も栽培されていました。
弥生時代には大陸から青銅器と鉄器が伝来しました。 大陸ではまず青銅器、次に鉄器の順で使われましたが、日本にはほぼ同時に伝わった点が特徴です。 青銅器は前期に、鉄器は前期末〜中期初頭に出現しました。
| 金属器の種類 | おもな用途 | 分布の特徴 |
|---|---|---|
| 銅鐸 | 祭祀の道具(農耕の豊穣祈願) | 近畿地方を中心に分布 |
| 銅剣・銅矛・銅戈 | 祭祀の道具(武器形だが実用ではない) | 九州北部・瀬戸内を中心に分布 |
| 鉄器 | 実用的な道具・武器(農具・工具) | 後期には石器に代わり全国に普及 |
弥生時代後期になると、九州北部では大型の銅矛・銅戈を、近畿地方では大型の銅鐸をそれぞれ祭祀の道具とする2つの文化圏が形成されました。
島根県の荒神谷遺跡では銅剣358本、銅鐸6点、銅矛16本が、加茂岩倉遺跡では銅鐸39点が一括で埋納された状態で発見されました。近畿中心の銅鐸圏と九州中心の銅矛圏の境界地域にあたる出雲で大量の青銅器が出土したことは、弥生時代の地域間関係を考える重要な手がかりです。
住居は縄文時代と同じく竪穴住居が中心ですが、穀物を蓄える高床倉庫や平地式建物も増えました。 西日本を中心に大規模な集落が各地に現れ、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は弥生時代最大級の環濠集落として知られています。
弥生時代の墓制には著しい地域差があります。 共通するのは死者の手足を伸ばして埋葬する伸展葬が多い点で、縄文時代の屈葬とは異なります。
| 墓の種類 | 特徴 | おもな分布地域 |
|---|---|---|
| 甕棺墓 | 大型の壺に遺体を納める。副葬品が豊富なものも | 九州北部 |
| 支石墓 | 大きな石を支石の上に載せた墓 | 九州北部 |
| 方形周溝墓 | 四角い溝で区画した墓 | 近畿・東海・北陸 |
| 再葬墓 | 一度埋葬した遺体の骨を壺に入れ直す | 東日本 |
| 縄文文化 | 弥生文化 | |
|---|---|---|
| 生業 | 狩猟・採集・漁労 | 水稲農耕(+狩猟・漁労) |
| 食料生産 | 自然に依存(採集中心) | 自ら生産(余剰が蓄積可能) |
| 土器 | 縄文土器(厚手、装飾的) | 弥生土器(薄手、実用的) |
| 金属器 | なし | 青銅器(祭祀用)+ 鉄器(実用) |
| 住居 | 竪穴住居 | 竪穴住居+高床倉庫 |
| 集落 | 数軒〜数十軒 | 大規模集落、環濠集落も出現 |
| 埋葬 | 屈葬が多い | 伸展葬が多い(地域差大) |
| 社会構造 | 比較的平等 | 貧富の差・身分差が明確に |
| 争い | ほぼ見られない | 戦争が頻発(環濠・武器) |
| 対外関係 | 列島内の交易 | 中国・朝鮮半島との外交 |
| 銅鐸文化圏 | 銅矛・銅戈文化圏 | |
|---|---|---|
| 中心地 | 近畿地方 | 九州北部 |
| 祭器 | 銅鐸(後期に大型化) | 銅矛・銅戈(後期に大型化) |
| 性格 | 農耕祭祀(豊穣祈願) | 武器形祭器(権威の象徴) |
集落間の争いを反映して、居住域のまわりに深い溝をめぐらした環濠集落や、丘陵の上につくられた高地性集落が各地に出現しました。 奈良県の唐古・鍵遺跡は直径400〜500mの集落を4重の濠が囲む大規模なもので、強力な「クニ」の中心であったと考えられています。
九州北部の弥生時代中期の甕棺墓のなかには、三十数面もの中国鏡や青銅製武器などの豪華な副葬品を伴うものがあります。 こうした墓の被葬者は各地の小国の王(首長)であり、なかには大陸と直接交渉をおこなう者も現れました。 中国の歴史書ではこのような首長を「王」、その支配領域を「国」と記しています。
①食料の余剰と蓄積が可能になり、貧富の差が生じた
②灌漑などの共同労働を指導する首長が権力を持つようになった
③土地・水利をめぐる争いが頻発し、環濠集落や高地性集落が出現した
④強力な首長が周辺集落を統合し、「クニ」と呼ばれる小国が各地に分立した
①水稲農耕には広い土地と水利が必要であり、集落間で争いが生じた
②食料の余剰が蓄積の対象となり、それをめぐる争奪が起こった
③鉄器の普及によって本格的な武器が使用されるようになった
当時の中国では、日本列島の人々を「倭人」、その国を「倭国」と呼んでいました。 日本にはまだ文字がなかったため、この時代の日本の姿は中国の歴史書によって伝えられています。
| 史書 | 時期 | おもな記述 |
|---|---|---|
| 『漢書』地理志 | 紀元前1世紀頃 | 倭人は100余国にわかれ、楽浪郡に定期的に朝貢していた |
| 『後漢書』東夷伝 | 57年・107年 | 57年:倭の奴国王が光武帝から金印を受ける 107年:倭国王帥升等が生口160人を安帝に献上 |
| 『三国志』「魏志」倭人伝 | 3世紀前半 | 卑弥呼が邪馬台国を中心とする約30国の連合を統率 |
1784年、福岡県の志賀島で農民によって発見された金印には「漢委奴国王」と刻まれています。これは「漢の委(倭)の奴の国王」と読まれ、紀元57年に後漢の光武帝が倭の奴国王に授けたものと考えられています。1辺2.3cmの小さな金印ですが、蛇のつまみがついており、当時の中国が倭を中国南部の風俗に近い地域と見なしていたことを示しています。
2世紀後半、倭の小国のあいだで大規模な争乱が起きました(倭国の大乱)。 争いがなかなかおさまらないなか、諸国は共同して邪馬台国の卑弥呼を女王として擁立しました。 卑弥呼は巫女として呪術にすぐれ、その呪術的権威を背景に政治をおこないました。実際の政務は弟があたっていたと伝えられています。
239年、卑弥呼は帯方郡を通じて魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印、さらに多数の銅鏡などを授けられました。 卑弥呼は中国皇帝の権威を後ろ盾にして、国内での支配を安定させようとしたのです。
邪馬台国では大人と下戸などの身分差があり、租税・刑罰の制度も整い、市も開かれていました。 卑弥呼は晩年、南にある狗奴国と争いましたが、247年頃に亡くなりました。後継をめぐって国が乱れますが、卑弥呼の宗女(同族の女性)である壱与(台与)が王となることでようやくおさまりました。
小国の王たちが中国に使いを送った目的は2つあります。①先進的な文物(鏡・武器・絹織物など)を手に入れること、②中国皇帝の権威を背景にして、倭国内での自分の立場を有利にすること──です。卑弥呼が「親魏倭王」の称号を求めたのも、狗奴国との争いの際に魏の権威を借りようとしたのも、同じ論理でした。
邪馬台国の所在地は、近畿地方の大和に求める説と九州北部に求める説があり、150年以上続く論争です。近畿説をとれば、3世紀前半にすでに近畿から九州北部にまたがる広域の政治連合が成立していたことになります。近年は奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘成果や銅鏡の出土分布から大和盆地南東部が有力とされますが、決着はまだついていません。この論争を理解するうえで重要なのは、「魏志」倭人伝の方角と距離の記述をどう解釈するかという史料批判の問題です。
①先進的な文物を手に入れること
②倭国内での立場の向上(中国皇帝の権威の利用)
①卑弥呼は巫女として呪術的権威で国をおさめた(祭政一致)
②実際の政務は弟があたった(祭祀と実務の分離)
③約30の小国の連合体であった(単一の統一国家ではない)
④大人と下戸などの身分差があり、租税・刑罰の制度が整っていた
①『漢書』地理志:紀元前1世紀、倭人は100余国に分かれ楽浪郡に朝貢
②『後漢書』東夷伝:57年、倭の奴国王が光武帝から金印を受ける。107年、倭国王帥升等が生口160人を献上
③『三国志』「魏志」倭人伝:3世紀前半、卑弥呼が邪馬台国を中心とする約30国の連合を統率。239年に「親魏倭王」の称号を得る
水稲農耕の伝来は、日本列島の社会を「採集する社会」から「つくる社会」へと根本的に転換させました。この転換がもたらした権力と争いは、やがて古墳時代のヤマト政権へとつながっていきます。
紀元前数世紀に大陸から水稲農耕と金属器が伝来し弥生文化が成立。食料余剰が貧富と権力を生み各地に小国が分立した。3世紀前半、卑弥呼が邪馬台国を中心に約30国を束ね、魏の権威を借りて統治した。
Q1. 弥生時代早期の水稲農耕を示す代表的な遺跡を2つ挙げよ。
Q2. 弥生時代に稲穂を刈り取るために用いた石器を何というか。
Q3. 弥生時代の青銅器のうち、近畿地方を中心に祭祀に使われたものを何というか。
Q4. 57年に後漢の光武帝から金印を授けられた国は( )国で、金印には「( )」と刻まれている。
Q5. 卑弥呼が239年に魏の皇帝から授けられた称号は何か。
Q6. 卑弥呼の死後、国が乱れたのちに王となった卑弥呼の宗女は誰か。
水稲農耕の伝来が弥生時代の社会にもたらした変化を述べよ。(4要素)
①食料の余剰と蓄積が可能になり、貧富の差が生じた
②灌漑などの共同労働を指導する首長が権力を持つようになった
③土地・水利をめぐる争いが頻発し、環濠集落や高地性集落が出現した
④強力な首長が周辺集落を統合し、「クニ」と呼ばれる小国が各地に分立した
縄文文化と弥生文化を、以下の5つの観点から比較せよ。
(1)生業 (2)土器 (3)金属器 (4)埋葬方法 (5)社会構造
(1)縄文:狩猟・採集・漁労 / 弥生:水稲農耕が中心(+狩猟・漁労)
(2)縄文:縄文土器(厚手、装飾的) / 弥生:弥生土器(薄手、実用的、甕・壺・高杯に分化)
(3)縄文:なし / 弥生:青銅器(祭祀用)と鉄器(実用)がほぼ同時に伝来
(4)縄文:屈葬が多い / 弥生:伸展葬が多い(甕棺墓・方形周溝墓など地域差が大きい)
(5)縄文:比較的平等な社会 / 弥生:貧富の差と身分の区別が明確化
弥生時代、小国の王たちが中国に使いを送った目的を述べよ。(2要素)
①先進的な文物(鏡・武器・絹織物など)を手に入れること
②中国皇帝の権威を背景にして、倭国内での自分の立場を有利にすること
この2つの目的は表裏一体です。中国から得た文物はそのまま権威の象徴となり、金印や銅鏡を持つこと自体が王としての正統性を示しました。卑弥呼が「親魏倭王」の称号を求めたのも、狗奴国との争いの際に魏に仲介を求めたのも、すべてこの構造のなかで理解できます。
邪馬台国の政治体制の特徴を述べよ。(4要素)
①卑弥呼は巫女として呪術的権威で国をおさめた(祭政一致)
②実際の政務は弟があたった(祭祀と実務の分離)
③約30の小国の連合体であった(単一の統一国家ではない)
④大人と下戸などの身分差があり、租税・刑罰の制度が整っていた